検地条目と石盛

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石盛は、その土地の上田をえらび、役人立会の上で坪刈をし、一坪に籾一升とすれば、一反で三石、これを五合摺にして、米では一石五斗が得られることになる。これを「一五の石盛」として中はこれより二斗減、下は更に二斗減として定めたといわれ、天正一七年(一五八九)の検地条目(太閤検)の中に
 
 一 田地、上京升壱石五斗 中壱石参斗代 下壱石壱斗代ニ可相成 其より下々ハ見斗可申付事
 一 畠 上壱石弐斗、中壱石、下八斗ニ可相定、其より下々ハ見斗可申付事
 となっており、以後の検地(内検も含む)の標準となっている(県史史料編近世一)。

Ⅱ-33 中津川市内関係各村の石盛(単位斗)

 Ⅱ-33表は中津川市内各地域の石盛を示している。これをみると、
(1) 田地については、太閤検地条目の場合より、一斗ひくく、上一四、中一二、下一〇が多く、上田一五は中津川の町分、茄子川村の町分しかない。
  新田、打出しの田は、さらにひくくなっているが、岩村領については、本田、新田とも上一四、中一二、下一〇で尾張領のような差はない。
(2) 畑については、検地条目と同様の上一二、中一〇、下八が多い。岩村領分は上一〇、中八、下六と、それよりひくくなっている。
  畑の打出し分は、徳原、松田、恵下では、上九、中七、下五、手金野打出し分は上八、中六、下四、下々三と低くなっている。
(3) 屋敷の石盛は上畑と同率といわれるが、山村知行分(木曽方)はそのようになっているが、苗木領三か村(日比野、上地、瀬戸)は、上畑一二に対して、屋敷は一四と高くなっている。
(4) Ⅱ-33表1~8は中津川村の石盛である。貞享検水帳(市史中巻別編)により、田地の反別、分米とその割合をみると、

 

となる。
  反別では、沼下田、分米では上田の割合が、それぞれ高いが、中津川村の田地は、石盛の高い方の割合が多いといえそうである。
(5) Ⅱ-33表のうち22~24番は、茄子川村木曽方(山村分)分で、天和三年(一六八三)の木曽方検地帳(篠原家文書)によるものである。同文書によって、地位別にまとめるとⅡ-34表のようになる。
  反別で沼下田四八%となり、中津川村より、下田、沼下田の割合が多いことがわかる。
  麦上田の名請人は、木曽方第一位の高持作十郎(高二八石余)と第二位の庄三郎(高一九石余)の二名で占めている(Ⅱ-19表)。
(6) Ⅱ-33表の14~21番は千旦林村枝村辻原、中新井村分である。その中でさらに本田分のみについて、反別、分米とその割合を地位別にまとめたのがⅡ-35表である。

Ⅱ-34 茄子川村木曽方分 地位・石盛など


Ⅱ-35 千旦林枝村辻原・中新井の本田分高・反別

 高(分米)の割合では、下田、沼下田、上田、中田、沼中田、下々田、沼下々田であり、反別の割合では、下田、沼下田、中田、上田、下々田、沼上田、沼下々田となり全体の傾向では、茄子川村同様に、下田、沼下田の割合が、ともに高い。
 辻原、中新井村は、時代が下ると中新井村、辻原と、かわってくることは述べたが、このことは生産性の面にもいえて、Ⅱ-33表の16番に示すように、辻原分には、上田はないし、中田の石盛についても同表20番と16番の比較でわかるように、中新井分の方が高い。