阿木・飯沼の石盛

354 ~ 357 / 922ページ
Ⅱ-33表の29~46番は岩村領阿木村、飯沼村の元禄一六年差出帳から作製したものである。それ以前については、寛永、正保、慶安、寛文、延宝の年中に検地があったことは、すでに述べてきた。
 そのうち正保元年(一六四四)の「飯妻村検地帳」(市史中巻別編)については、Ⅱ-30・31表などにもまとめたが、さらに上、中、下別に二二名の名請人別に地位筆数を表にまとめると、Ⅱ-36表のようになる。
(1) 中田反別約一一町と、もっとも多く、三八%を占めている。以下、下田、下々田、上田、下畑、中畑、上畑の順になっている。
(2) 下畑には、6番竹蔵の七筆あって四畝二七歩、7番又右衛門の二筆あって一六歩というように、一畝以下の畑が多い。これは中津川村の場合と、著しく異なる。このことを最大高持21番太郎兵衛についてあげると、次のようである。
 ①一畝以上の田の広さと筆数
  二畝一二歩、四畝、二畝六歩、七畝六歩、八畝一二歩、七畝二八歩、一畝二歩、三畝一歩、七畝一八歩、一畝二六歩、一畝二六歩、三畝一〇歩、三畝一八歩、一反一畝一〇歩、一反二畝、一畝、以上一六筆
 ②二九歩以下の田の広さと筆数
  二五歩、二八歩、一八歩、一六歩、一四歩、四歩、二二歩、二七歩、一六歩、一五歩、二四歩、一六歩、一六歩、一二歩、以上一四筆
(3) 上田をもたない百姓八名おり、またその多くは上畑をもたない。
(4) 最大21番太郎兵衛と、最小5番久右衛門の田畑地位別の反別の割合は次のようになる。
       太郎兵衛   久右衛門
  上田   六・二八%   〇  %
  中田  四四・二一%  三二・二%
  下田  一六・八四%   九・七%
  下々田  六・四九%  一九・三%
  上畑   〇・八二%   〇  %
  中畑   七・七一%   六・五%
  下畑  一七・六五%  三二・三%

Ⅱ-36 飯妻村正保検地帳の名請人別・地位別筆数

 両者共に中田の割合が高いこと、久右衛門には上田、上畑がないこと、また下田、下畑の割合が多いことなど目につく。
 阿木村については元禄一六年差出帳(市史中巻別編)によると、阿木村本郷古高分の反別割合は上田約三二・九六%、中田二〇・六%、下田二三%、上畑一〇・三%、中畑五・三%、下畑七・七%となり、上田が約三分の一を占めている。
 中津川村では、麦上田、上田の反別割合が二一・八%であるから、阿木村の方が、上田反別割合が高いといえる。これとは別に、広岡新田など枝村の古新田分については(市史中巻別編)、下田分米割合五三%と多い。