文政五年(一八二二)の「手控秘書」(大山家文書)によると
正徳六(一七一六・享保元年)丙申年六月朔日 洪水御領内水損検地被仰付之候付
慶長年中御検地帳並 平岡印旛守様 和田河内守様 鈴木
左馬之助様 御差図以両様引合御領内中相改之覚、相記者
也
長沼八左衛門
陶山直右衛門
安田与平治
纐纈恒右衛門
棚橋左一左衛門
享保元丙申年九月
御勘定頭 陶山丈左衛門
平勘定 山中平五郎
郡代 横山作五右衛門 村奉行衆
勘定頭衆
右帳面之通可致相定者也
とあるように、慶長検地(正保検-岩見検)を享保元年に再改めした石盛で、以後の苗木領内の石盛は、これによったと考えられるが、三か村も含めて、領内の村についてまとめると、Ⅱ-37表のようになる。
Ⅱ-37 苗木領内村別石盛帳・文政五年(苗木大山家文書)
表からわかることとして
(1) 上、中、下は二下りになっている。
(2) 日比野、上地、瀬戸の三か村は、坂下、上野、高山、福岡の各村と同じである。
(3) 白川郷、佐見郷には「桑一束、楮一束」というのが入っているが、三か村にはない。
(4) 山畑石盛三は、三か村にはない。
(5) 屋敷石盛は三か村のみ高い。
以上のようで、苗木領全体からみて、三か村は領内では生産性の高い村といえる。