湯舟沢村には、江戸時代を通して、村高がなく、石盛にあたるものがない。
江戸初期の慶長一八年(一六一三)の郷帳によれば、湯舟沢村は年貢米三〇石となっている。また江戸時代後半の状態を示している湯舟沢村明細帳では年貢米五九石余と書きあげられているが、その説明部分中に「木曽内御年貢之儀ハ田畑反別無之 古来ゟ(より)現米ニ而(て)相納来処………」の一節があって、村高によって、年貢米を納入させていなかったことをいっている。
Ⅱ-33表の25番に示すように、田方、畑方にわけて、上、中、下、下々、野下、荒、屋敷、藪にわけて、反取(一反歩に対する年貢高)を示している。