太閤検は田畑の収穫を計り、土地の標準収穫を定めて石高で村高をあらわし、領主の知行も、この石高によって行うもとになり、江戸幕府もこれを受継いで、幕藩体制を確立した。これは農民に土地の耕作権を与え、代償として、年貢上納の義務を課することであり、大名は、年貢の徴収権を得て、農民を支配し、幕府は大大名としての面と共に、大名に対して領地与奪の権をもち、公儀として、公役、参勤、江戸城警護などの遂行を課する体制であった。課せられた大名は、この幕命を遂行することが、極めて大切なことであり、例えば、苗木城主四代遠山友春(延宝三年~正徳二年)が郡奉行にあてた下知状の第一条に「高壱万五百余之所之 従 公儀 御役儀当候時は 大切に精を出し 可被相勤事」(遠山家文書、県史史料編近世二)とあって、幕府への役儀は大切に精出すよう下知している。
こうした体制の基本であり、財政の基幹となるものが年貢であった。従って地方支配の主体となるものは必然的に年貢とそれに関連する百姓居村の状況を調べる宗門改めなどが共に中心になる。
ここに支配者の農民観がある。江戸時代を通して、もっとも有名な幕府法令は慶安触書(慶安二年、一六四九)である。文治政策に転換した江戸幕府は儒教的教義に基づき、百姓一般を「愚なり」ととらえて、日常生活に厳重な干渉をし、極度に自給自足と倹約を要請しているなかで、「年貢さえすまし候へば 百姓程心易きものはこれなく……」といい、こまる百姓があれば、「五人組や 村の惣百姓が助力して 耕地が荒れないようにし」、ともいって身上よき百姓には、年貢納入を円滑にするために、ある程度の剰余部分を残す配慮と共に、身上よくない百姓に対しての連帯責任による年貢の確保をもとめている。百姓を統制するもとは、年貢の確保にあった。
年貢について地方凡例録には「租税は俗に取箇 成箇 物成 年貢などと唱え 田畑より納る貢物なり」と記されている。百姓一般の負担は、この田畑に課せられる年貢の外にもあり、その意味で年貢は本途(ほんと)(正租)とも呼ばれている。つまり検地によってつけられた耕地、宅地などに課せられる現物租税のことを年貢というわけである。しかし江戸時代の百姓を治める根本方針として、よく引用される「胡麻(ごま)の油と百姓は絞れば 絞るほどでるもの」、「郷村の百姓共は死なぬように生きぬようにと合点致し 収納申付様」などは、単に耕地宅地などに課するものをいうのでなく、百姓が出すすべての租についていっていると考えられるから年貢を広義にみることもできる。
本佐録に「先に一人一人の田地の境目を能立て 扨一年の入用作食をつもらせ 其余を年貢に収べし」とあって、「百姓の生活 再生産に必要な最低限度を残して 残り全部を年貢として納めさせよ」というのは、広義の年貢の意であろう。
こうした年貢の意味を考慮した上で、農工商に課せられた貢租を種類別にしてみよう。