本途物成

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「本年貢(正租)の賦課は、一般的には石高を基準とする。検地によって定まった石高の一定割合を検地帳に記された作人である百姓または、その後継者に賦課するものである。この場合は石高に幾つ何厘何毛という比率(免とも取箇ともいう)をかけて年貢(取米ともいう)をきめる。……」(世界歴史辞典一五巻・平凡社)とある。
 石高を基準とするとあるが、それは村高でなく、年貢対象の高(所務高)である。この所務高に、年貢の割合=免をかけて、年貢量をきめるわけである。
 元禄一六年(一七〇三)飯沼村差出帳(市史中巻別編六七八頁)によると、飯沼村の本田畑の「免」は次のようになっている。
 
 貞享四年(一六八七) 四ツ九分
 元禄元年(一六八八) 四ツ七分
 同 二年(一六八九) 四ツ六分
 同 三年(一六九〇) 四ツ八分
 同 四年(一六九一) 四ツ九分
 同 五年(一六九二) 四ツ三分
 同 六年(一六九三) 四ツ九分
 同 七年(一六九四) 四ツ四分
 元禄八年(一六九五) 四ツ六分五厘
 同 九年(一六九六) 四ツ八分
 同 一〇年(一六九七) 四ツ八分
 同 一一年(一六九八) 四ツ五分
 同 一二年(一六九九) 四ツ六分
 同 一三年(一七〇〇) 四ツ七分
 同 一四年(一七〇一) 四ツ五分五厘
 
 元禄一五か年平均免は、本田畑で四ツ六分七厘となる。同じく同差出帳による、古新田の平均は、二ツ六分八厘、切起新田の平均一ツ八分五厘となっている。
 幕府の年貢率は、Ⅱ-38に示すように、初期は六公四民であったが、一七世紀後半から低下し、八代吉宗によって回復され、その後の延享-宝暦期が最高で、それ以後、再び低下したといわれる。これは幕府領のことであって、各領、各村によっても異なるものであろうが、年貢については、この年貢率の変化の他に、次のようなことが一般的事項として、明らかになっている。

Ⅱ-38 江戸幕府の年貢率(日本歴史の視点 児玉幸多編より)

 (1) 江戸時代も後半は、本年貢以外の諸負担が増加していったこと。
 (2) 小大名ほど高率だと考えられること。
 (3) 「免」は村によってまちまちであること。
 (4) 百姓の持高に対して、一律の租率であること(累進課税でない。小百姓ほど苦しい。)。
 (5) 年貢の「村請」であって、村に対して下命するが、村内の個人割当については不公平にならぬようにというのみであって、村役人たちにまかされていたこと。
 この本年貢に附加して納めるものに、口(くち)米、口永、欠(かん)米、込(こみ)米などがあった。