欠米、込米

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欠米は年貢米輸送の際の痛米、その他の欠損を補うものであり、込米は升量の際の減量を補うものとされている。
 元和二年(一六一六)に米一俵を三斗五升の正味とし、それに二升加えて計算し、一俵三斗七升で蔵納めをするように幕府は定めた(県史通史編近世五)といわれるが、元禄年中の岩村領では一俵は四斗であり、それに「納米四斗入の外に二升込米仕来候」(元禄一六年差出帳)とあるように、込米は一俵に付き二升であった。
 尾張領の給人分である千村平右衛門の知行所千旦林村枝村の中新井、辻原の享保四年(一七一九)では、中新井分の取米(本年貢)一四石二六五、辻原分の取米が三石七三九で、合計一八石〇〇四の取米で、この一割、つまり一石につき一斗を込口米として、一石八斗の納入を命じている。「込口米」としているから、込米の部分だけが、どれ程であるか、はっきりしない。しかし、前の尾張領給知分口米一石に付き七升を参考にすると、込米のみは三升であろうか。
 この中新井・辻原では、以後、文政一一年(一八二八)まではすべて「一石に付一斗の込口米」で通しているから、それ以後も明治まで、おそらく、同じ割合で納入させていると考えられる。これは、久々利方(千村方)関係むらむらすべて同様であろう。
 しかし、同じ尾張領の給人である千旦林村三百石方(山村八郎右衛門)では、取米の約七分が込口米となっていて(同村天保八年年貢皆済帳市史中巻別編五〇四頁)同じ千旦林村内でありながら、知行主が異なるために「込口米」の割合が久々利方と同一ではない。
 木曽方(山村方)である中津川村の場合には「本田納米ヘ込口米ト唱壱割帳面ヨリ多納ル」(中川旧記)にあって、「込口米」として本田納の一割を納入しているわけで、口米と込米の区別をやはりしていない。
 知行主によって、若干の差はあるが口米、込米などの合計は本年貢の一〇%以上となるのが普通だといわれている。