小検見

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現在の作柄調査、被害調査にあたるもので、収穫前に立毛(田畑の作物)の出来具合を調査してその作毛により租率を加減し、更に検地以後の水害で耕作不能地は引き、切起、起帰し、などの増加田畑分は加えて、その年の実収高を予想し、租率を決定するのが検見法である。
 検見についてその実際を、飯沼村を中心にふれてみると、岩村領は丹羽氏が改易になった元禄一五年(一七〇二)六月から、松平能登守が岩村城を請取る同年一〇月二九日の間は幕府領として笠松陣屋が支配した。
 この時の検見について「午(うま)御検見之義ハ両代官様御廻リ被成候 辻六郎左衛門様ハ飯沼村 南条金右衛門様ハ阿木村万岳寺ニ御泊リ被成候 其後坪刈御手代衆御両人御廻リ被成候」とあって、代官が廻村する大検見と、手代立合の坪刈をしている。これを検見という。この両手代衆について広岡新田の「当午引方帳」の奥書には、次のようになっている。
 
  元禄十五年午十月
     辻六郎左衛門内
      岡 歳兵衛
     南条金左衛門内
      安富仲右衛門(広岡鷹見家文書)
 
 それより前に村内では内見(ないけん)をして、案内できるようにしておくのである。このことについて、明和七年(一七七〇)の飯沼村宮地日誌には、次のように出ている。
 
  九月廿二日 小雨ふり 昼より上り 庄屋方の検見案内帳拵参り 夫より大の(枝村大野村)え参り帰り
  九月廿三日 天気吉 郡奉行検見ニ御出 市助参り 忠八稲こき
 
  (参考 この年の稲刈はじめ八月十三日 御用米拵十月八日)
 このことを、岩村領丹羽時代の様子である元禄十六年差出帳(市史中巻別編六六八頁)では
 
  「小検見引毎年あり」
  「役人検見 其外村廻之節 村ゟ(より)人馬出申候 賄の義 夕食一人ニ付 扶持米一升 その外村ニ而賄来候」
 
 広岡新田の貞享四年(一六八七)村絵図には、大根木境と大野村境に渡場という所が記入されているが、これが検見役人を送迎する場所である。また村内には清水と右門平、北側の三か所に、お茶場という検見役人が籠からおりて休む場所があった。これが「かご台」という地名となって残った。

Ⅱ-39 広岡新田 小検見引