天明三年の飯沼村検見

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こうした観点に立って、飯沼村「宮地日記」によって、検見の様子を更にくわしくみよう。
 天明三年(一七八三)は、前年に引きつづき大風雨、洪水、疫病流行、浅間山爆発など大凶年であり、苗木領では他領へ米販売を禁止した年である。この大凶年、岩村領は領内の大検見、小検見を実施している。その様子を飯沼村の百姓藤四郎が記したものである。
 
          覚
     沢井市郎兵衛殿(大検見役人頭)
     若党壱人
     銭     (随行の人と物をあげる)
     挾箱
     草履取
     大野喜平
      草(ぞう)り取  [役人それぞれ一人あて草履取をつれている]
     神田三郎兵衛
       草り取
     渡辺源内
       草り取
     小木曽條助
       草り取
       手代壱人
     〆人数拾四人(大検見の人数が分かる)
   一 駕籠人足四つつ [飯沼村負担で出す人足予定数でもある。]
   一 合羽持壱人
   一 挾箱持人足四人
   一 夜具附馬弐疋
 右ハ来月(天明三年一一月)三日 出立為大検見
 何レ茂(も)御出被 成候御休泊左通候条 其心得べく候
   三日 岩村 上切 根上 富田(休)
      大圓寺 飯沼(泊)
   四日 中野 永田 野井(休)
      久須見(泊)
   五日 一市場(休)河合(泊)
   六日 浅野(休)市原 神野又蔵〈山之内益子小左衛門なり〉
   (現在のコースでいうと、岩村町を出て同町本郷から、飯沼を出て一泊、次の四日は恵那市長島町中野、野井、久須見、五日は瑞浪市土岐町一日市場から、土岐市泉町河合、六日は土岐市肥田町浅野のコースである。日程に出ていない阿木村、飯羽間村などは、コースに出てこないのは何故だろうか。)
 一 去年之通村賄ニ申付候 条 平常役人罷出候節之通 相心得 惣テ地(馳)走間敷義不仕 餅くわし(菓子)等々ノ類 堅ク出し申間敷諸事是迠年々申付候 外ヶ条前々通ニ候間 □不申候 岩村江高札持参申候
  (検見役人に対しては規定通りにして、餅、菓子を馳走するようなことは、してはいけないとある。規定通りとは前記元禄差出帳にあることであろう。)
 (天明三年)十月廿九日
  岩村江高札持参 参り申候 夫ゟ(より)直ニ野井江参泊リ申候、中野御機嫌伺申候
 十一月三日
  大検見様 六ツ時(午後六時)ニ御出被 成候
 十一月四日
  明六ツ半(午前七時)ニ大検見付御立被 成候 小検見様 四ッ半時(午前一〇時)ニ中野ゟ御出ニ成被海道尻ゟ家下迄御続被 成候
  (幕領では、代官の行うのが大検見、手代が行うのを小検見。小検見が田主誰と記した紙札をたてさせて調べる。小検見は中野からきているので、前記の大検見のコースとは逆にまわったのであろうか。百姓にとっては、この小検見の方が問題である。)
 十一月五日
 家下ゟ後田筋 井ノ口ゟ寺田迠、御見分仕舞(しまい)申候 富田 大圓寺ゟ御伺ニ参り……
  (飯沼村の地内を小検見役人が見分けして廻ったコースで後田川筋を見分して廻ったことがうかがえる。またこれから小検見役人が廻っていくことになっている富田村役人らが、機嫌伺いにきたことが分かる。)
 十一月六日
  御休 御救候之義 御噯(あがない)有之候 御勘定所ゟ御代(代官)様江御用状参上遣候
  (この日は小検見は休みで、御救引のことについて取扱いがあった。)
 十一月七日
  わき田(地名)ゟ小ひよも(小日向)、ほらかいと洞 ゆ屋田迠見申候
  (小検見のコースを示す)
 十一月八日
  脇田ゟ宮前 向はた一ノ坪迠仕舞 昼前切ニ御上り成候
  (小検見コース、この日の午前中で小検見は終了している。)
 十一月九日
  富田村江御越被成候 朝 御噯乞之時 当年ハ各別ゆへ御救引有 高も夫々不構引候段被 仰付候……阿木村境迠役人不残御見送申候
  (天明三年は凶作特別の年として、救引、高引があったことをいっている。飯沼村役人は残らず阿木村境まで小検見役人を送った。)
 十一月十日
  富田村江検見御礼ニ参り 与吉と両人御礼済 夫ゟ岩村江参り 大検見様御礼勤罷帰り申候
  (小検見役人に対して、御礼に藤四郎と与吉が行っていることがわかる。それをすませてから、この両人は岩村へ行き大検見役に対しても御礼を言上している。)
 十一月廿六日
  急度申触候
  御免定御渡被 仰渡有之候条 村々庄屋壱人 組頭壱人 来ル晦日朝五ツ時(午前八時)会所江可罷出候 尤 定免村々ハ庄屋壱人可参候
  油断有之間敷候
  卯十一月廿六日   臼井久吾
            田中三蔵
  (検見が終了して、年貢令状=免定を渡すので十一月三十日朝八時に岩村の会所まで出頭せよという触状である。村からは誰が出頭したかわかる。)
 十一月晦日
  御免定相済 三年賦七俵ハ当年壱ヶ年御延被下 来暮ゟ三年ニ相成申候ニ外ニ米拾五俵本田郷高江被下置候
  (岩村より三年期限借用した米の返済を来年からにすること。救米が一五俵で、これだけ、この年の年貢の基準が下がるわけである。前年の天明二年十一月廿五日の日誌には「……免四ツ四分ニ被仰付 救米拾弐俵本田高ニ被下置候」とあるから、天明三年は同二年より、さらに三俵多い救引きである。

Ⅱ-40 飯沼村、天明三年小検見推定コース  (宮地日記より作製)