検見の留意事項

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天明七年(一七八七)の宮地日記の中に、検見の留意事項がでているので次に記しておく。
 
  検見の方法
 一 検見穂之義 年々申付候得共 不相用近年は巾せまく致不埓ニ有之候 今年ゟ急度御完法之通 検見穂三尺巾田毎ニ立置可申候如此申付候上にも 三尺巾ゟせまく致候ハバ小検見ニ出候ニテも引方不相候間 其心得可致候 且又 小検見請不申村方も 大検見御道筋検見穂右同様ニ相心得 三尺巾と検見穂立置可申候 右之趣急度百姓共ニ可申付候 尤猪鹿多出候同所 山洞等只今迠少宛検見穂かこい立テ置場ハ只今迠之通ニ相心得可申候 夫共成たけ 検見穂多立置御用ニ可仕候此廻状村下ニ庄屋印形致早々相廻 留村ゟ席(ママ)を以可相返候
(天明七年)未六月八日  御代官様方
             用人様
 
 と検見の事前準備について村々に触をまわしている。
 また、検見が終了したところで「検見請証文」が村方から提出されるが、これについては落合村久々利方分を次にあげる。
 
     差上ケ申一札の事
  一 当戌秋御検見私共御案内仕、立毛善悪無依怙贔屓(えこひいき)、明細ニ御見分之上畝引被遊 申分無御座候 然上は御免相上中下之舂法、御積を以可被仰付旨 少も異儀申上間敷候、若後々ニ何角と御訴訟ケ間敷儀申上、御年貢相滞リ候はゝ 何様之越度ニも可被仰付候、勿論礼儀、礼物等不仕、百姓痛ニ罷成候儀毛頭無御座候 為後日一礼 仍て如件
    寛保二年(一七四二)
      戌九月  落合村庄屋
              井口五左衛門 印
           同所年寄
                善  助 印
           同断
                佐左衛門 印
           同所百姓代
                又四郎  印
           同断
                孫三郎  印
   越石郷左衛門様
   伊藤磯右衛門様
   藤井儀左衛門様
   佐々丈右衛門様
 
 検見を差別なく公平に実施されたので申分(もうしぶん)はない。この上は御役人が舂合(つきあわせ)をされた御見積りで仰付けられても異議なく、年貢を出しますし、御役人に贈物をしたことなどもありません。という大意のものである。
 この文の意をそのままに受取ることはできないが、当時は千旦林村にあった久々里方代官の越石郷左衛門のみでなく、千村平右衛門代の格をもつ伊藤磯右衛門にもあてた請書であることから、この頃の検見は代官所の引き請けのみでなく、もっと大がかりに行われていたこともわかる。この何段階かの役人が検見をして舂合せる方法は、尾張領では天明の改革以後中止した。
 [参考]
    検見坪刈之事
 一 坪竿之儀 村方より持出候事も有之候得ども 陣屋ゟ(より)持参之竿を可用事
 但、坪竿六尺弐寸五分を用ル
 一 坪竿竪横一方ツゝ稲株ニ付キ 一方ツゝハ明キニなる様ニ竿置可申事 両竪稲株ニ付キ両横明ニ成候てもよし 又 四方とも内外之株之中通り竿置候えてもよし
  但 畔より稲株三株離シ竿置可申事
 一 坪苅厳重に取斗 稲を苅取 株数ヲ改 銘〻田面帳ニ記 苅取候稲を袋之入 封印を付 上坪 中坪 下坪え印札を付村名を書記 右持人ニ袋之口を上へなる様ニ為持 御代官案内いたし候庄屋 役人え先キニ為立可申事
 一 籾ハ御代官 御徒目通ニテこなさせ こき落候藁ニ籾残りなきやうに 手代は気を付可申事
 但 籾斗り候節 村役人引加置可申事
 袋図 略 
 中坪 下坪 概坪とも右之振 紙袋ニ書しるし 袋之裏ニ支月日共可記
 但右籾ハ村方より陣屋之為届可申事 其内検見村数少キ時ハ持参之長持え入候テもよし
 一 籾の合勺 田面之字 稲種 株数 田主之名前とも田面帳ニ可記置候事
 御免相積り之節 勘考之端ニも可用為也
                         (尾張藩古儀)