過去数年間の平均をとって、三年、五年、一〇年など年限を定めて年貢の率を一定にしておくのが定免法である。
幕府領では、享保年間以後五年、一〇年、二〇年と年限をきめて、その間は三分以上の損毛のばあいを除いて率を一定にし、減免を認めない定免法を用いるようにすすめ、寛延二年(一七四九)には、幕府領内に一般化し、年貢の増徴をはかったといわれている。
また諸大名もこれにならった。しかし、それ以前でも「慶長十三(一六〇八)申年以前は大率定免ニ而二月、三月之免定各有レ之」とあって、定免法はあった。
なかでも、苗木領は藩政初期より定免法であり、これが苗木領の特徴の一つといわれている。検見であっても石高を基準として、調査をして、ほぼ一定率の年貢を課するのであるから、検見法と定免法で一長一短はあるが、根本的な差異は認められない。だから年貢を納入する義務をもつ百姓が得心して望むことが、定免法実施の一つのポイントとなる。
この百姓よりの定免願の理由はいうまでもなく、「困窮ニ付キ」であって中津川市内関係(苗木領関係を除く)では、茄子川村の尾張領(蔵入)方が元禄一六年(一七〇三)で、もっとも早い時期のものである(尾張藩石高考)。この時尾張表ではだんだん定免願をする村むらが多くなってきたが、これからは定免は取上げないようにして、そのかわり願を出す程困窮した村に対しては、立毛(作柄)をみて、その程度に応じて、免相を引いてやるようにせよと指導して定免を許可していない。ついで享保一一年(一七二六)には、千旦林村枝村中新井村、辻原の千村方知行の百姓たちより、次のような願いが出ている。
乍恐奉願上御事
一 中新井村御百姓中 追〻困窮仕候処ニ近年別而御役等多ク殊ニ川並御用等掛リ御座□(候)而難儀仕候 依之奉願上候者 立毛御免相之儀享保元申之年(一七一六)ゟ(より)同巳ノ年(一七二五)迠十ヶ年之内御免相元高ニ御概右概御免相之内 弐分御引被遊 当午ノ暮(享保一一年)ゟ戌迠(享保一五年)之間御定免ニ被為仰付被下候様ニ奉願上候 右申上候通□□村困窮仕御役等難相勤至極迷惑仕候 何とぞ御慈悲以願之通相叶候様ニ被為仰付被下候者難有可奉存候
以上
中新井村庄屋 長八郎
享保十一年 同村惣百姓代 八兵衛
午二月 辻原村同断 長 蔵
岩宿村 源 七
中村吉右衛門様(久々利方代官) (篠原家文書)
とある。
享保元年より、同一〇年までの免の平均をとって、二分引きにして、享保一一年より五か年の定免を願い出たものである。理由は近年諸役が多くなって村は困っているといっている。これを同村の「物成詰」=免定で調べると、
年代 中新井本高免 辻原本高免
享保一三年 三ッ三分八厘三毛 一ッ七分二厘
享保一四年 三ッ三分四厘 一ッ七分二厘
享保一五年 三ッ三分七厘七毛 一ッ七分二厘
となっていて、辻原分三か年とも同じであるが、中新井は同一免にはなっていない。
苗木領を除く、中津川市関係の定免法は、享保期には、まだ定着していないと推察できる。では定免法が実施されはじめたのは、何年頃からであろうか。その時期に限って、知行別に考えてみよう。