(1) 木曽方の場合

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茄子川村木曽方の天明七年(一七八七)の年貢免定によると、次のように記されている。
 
 右茄子川村明和元申年(一七六四)ゟ(より)安永四未之年(一七七五)迠拾弐年 其内寅卯両年(明和七、八年)除前後拾ヶ年概去申(安永五)ゟ子年(同九年)迠五ヶ年定免ニ被仰付候処 願次有之丑(天明元年)ゟ卯年(同三年)迠三ヶ年定免ニ被仰付候処 又〻願次有之辰年(天明四年)ゟ午年(同六年)迠三ヶ年定免ニ被仰付候処 又〻願次有之ニ付当未年(天明七年)ゟ来亥年(寛政三年)迠五ヶ年願之通 定免ニ仰付候……略
 
とあって、茄子川村の木曽方は安永五年より、定免法がはじまり、はじめは五か年間、ついで三年間-三年間-五年間の期限でつづいている。それ以後も、次の慶応三年(一八六七)の願上やⅡ-41表で示すように五か年間の定免法がつづいているようである。また次のような文書もある。

Ⅱ-41 中津川市内木曽方(中津川・手金野・茄子川木曽方・落合木曽方)定免年代

乍恐奉願上候御事
  御免定之儀 明和元申年(一七六四)ゟ去寅年(一八六六)迠 追々御定免ニ御願次来リ候処 当卯ゟ未年(明治四年)迠五ヶ年之間 御免定被仰付被下置候様奉願上候 以上
  慶応三   茄子川村組頭   彦五郎
   卯正月  同村庄屋   篠原長八郎
  三勘(三尾)兵衛様                    (篠原家文書)
 
① 中津川村 については、市岡家本陣の「萬覚書」の弘化二年(一八四五)中津川村納目録より、関係事項をあげると、次のようである。
 
  ・中津川町分 中村 実戸 明和五子年(一七六八)ゟ安永八亥年(一七七九)迠十二ヶ年之内寅卯両年(明和七、八年)除前後十ヶ年概子年(安永九年)ゟ追々定免願次来候処 寅年(天明二年)ゟ残高免五ノ上ニ而去寅年迠定免被仰付候処又々願ニ付 去卯年ゟ来子年迠十ヶ年之間定免被仰付候
  ・上金 子野 北野 明和五年(同二年か)ゟ安永五申年(一七七六)迠十ヶ年概追〻定免ニ願次来候処 去寅年迠 願之通被仰付候尚又願ニ付 去卯年ゟ来子年迠十ヶ年間定免被仰付候
  ・川上村安永六酉年(一七七七)ゟ残高免二ノ上ニ而未年(一七八七 天明七年)迠追々定免ニ願次来候処 又〻願ニ付 去卯年ゟ来子年迠十ヶ年之定免被仰付候
  ・中津川町在郷打出明和四亥年(一七六七)ゟ安永五申年(一七七六)迠十か年概被仰付候 其後追々定免ニ願次来候処又〻願ニ付去酉年来ゟ午年迠十ヶ年定免被仰付候
  ・松田 恵下 徳原 戸沢 安永四未年(一七七五)ゟ天明四辰年(一七八四)迠十ヶ年之間定免被仰付又〻追〻願次来候処去卯年ゟ子年迠十ヶ年之間定免被仰付候
 
となって、中津川村内で
  ・町、中村、実戸
  ・上金、北野、子野
  ・川上村
  ・町、在郷打出分
  ・松田、恵下、徳原、戸沢の四つにわけられ、概(平均)をとった年代、定免法開始の年の二つが若干異なっているけれども、だいたい安永四~八年の間にはじまり、期限は十か年単位となっている。(Ⅱ-41表)
② 手金野村では、岡本留記(岡本家文書)に「明和年中ゟ御定免を奉願、夫ゟ五年目度ニ願継いたし定免□仕来候事」とあって、茄子川村木曽方、中津川村と同じ頃から定免法がはじまっている。
 期限は中津川村と異なって、五か年でいっている。
③ 落合村、千旦林村 の木曽方については、確定し得るような資料に接していないが、前記の中津川村、手金野村、茄子川村木曽方とほぼ同じ年代の安永四年~八年の頃であろう。塚田手鑑(市史中巻別編)によると、落合村について、天保八年(一八三七)の項に
 
  定免 五ツ四分七厘一毛  木曽方
  同断 五ツ八分五厘三毛  久々利方
 
 とあるから、天保年中には、落合村は木曽方、久々里方共に定免であったことがわかる。また「落合郷土誌」には、嘉永三年(一八五〇)から明治二年までの落合村木曽方の皆済目録によって、免が「五ツ四分七厘一毛」と一定していることを指摘している。従って、落合村木曽方は、すくなくとも、天保以後は定免であったことはわかるが、その始まりの年代については、他村より推定するしかない。
 千旦林村については、木曽方、久々里方の別がなくなった明治以後のものであるが、次のような「定免」に関する文書をあげておく。
 
      御定免奉願候ニ付御請書之事
  一 田反別四拾九町五畝三分八厘
  此貢米 百九拾壱石八斗壱合
  右は当千旦林村儀ハ是迄御検見場ニ御座候処 今度御定免奉願候ニ付テハ書面之貢米辻ヲ以テ 当明治七年ヨリ以後御年限中御定納可仕候
  一 右ニ付御年限中心得方ノ儀 左の通被仰渡候
  一 御定免御年限中 如何様ノ豊作有之候共上納御増方不被仰付儀ニ付 水旱損ノ年柄有之候共 三分以上ノ損毛ニ無之候ハハ御引方之儀一切御願仕間敷事
  一 若多分ノ損毛有之節ハ戸長始地主一同立会下タ見致シ三分以上の損毛ニテ御定ノ通上納仕難キ節ハ篤ト相改メ 御規則之通内見帳相仕立毛付建札等綿密ニ仕 御見分可奉願候事
  但御見分奉願候節ハ一村申合鎌留致シ無願ニテ作毛苅取申間敷事
  一 萬一天災ニテ損所出来候節ハ 損所并残地ノ畝歩綿密ニ相改御見分可奉願候事
  右之趣 地主一同屹度相守リ心得違無之様仕候上ハ御定免ノ儀 御取調可被成下旨被仰渡承知奉畏候 然ル上ハ御年限中右条々ノ外苦情ケ間敷儀一切御願仕間敷候 依之私共連印ノ御請証書差上申候 以上
    明治七年四月 美濃国恵那郡千旦林村
                      百姓総代 幸脇又右衛門 印
                      副戸長  熊谷善左衛門 印
                      戸長   林  弥 市 印
  小崎岐阜県参事殿
 前書之趣其筋ヘ上達之上、明治七年ヨリ同十一年迄五ヶ年季相極定免聞届致条書面之通 堅可相守者也
 明治七年五月
      岐阜県参事 小崎利準 印
 
 明治になってからの「定免請書」と「定免許可書」である。
 三分以内の損毛はそのまま、それ以上の場合は検見をしてきめるなど、内容は江戸時代そのまゝである。はじめにある「千旦林村儀ハ是迠 御検見場……」の是迄とは、何を示すのか、江戸時代以来のこととしないで、他村との比較などから、明治七年にはじめて明治の「定免」がはじまったとすべきであろう。