(2) 久々利方の場合

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千旦林村枝村中新井村、辻原の久々利方(千村方)分の免定によると、寛延二年(一七四九)より三か年定免法を採用している。これは先にあげた幕府領内に定免法が一般化した時期と同一である。
 しかし、その後の宝暦年中の免定では、免は一定していないから、定免法が願次ぎされていったとは考えられない。安永五年(一七七六)に久々利方村役人は連名で、次のように出願している。
 
      乍恐奉願上候御事
  一 村々之儀一統困窮仕候ニ付 去ル丑年(明和六年)御定免ニ被成下候様 御願上候処 願之通被仰付被下置難有仕合ニ奉存候 尤去未年(安永四年)御定免限年ニ御座候故 御願申上候処一ヶ年限被仰付被下置難有奉存候 御時節柄其儀恐多御願ニ奉存候得共 此上当申(安永五年)ゟ来ル子年(安永九年)五ヶ年之内御定免ニ被仰付被下置候様奉願上候 別して去未当申(安永四、五年)両年麦作殊之外不作仕候而甚百姓方一統ニ困窮仕候ニ付 前免にも御願申上候得共 厚く御勘考被成下願之通被仰付被下置候ハバ 難有仕合ニ可奉存候 以上
     安永五年 申五月    落合村庄屋  小左衛門 印
                 駒場村庄屋  儀右衛門 印
                 千旦林村庄屋 佐左衛門 印
                 中新井村庄屋 儀兵衛  印
                 茄子川村庄屋 傅右衛門 印
                (庄屋名は各村共に久々利方庄屋である)
  千旦林村
  御役所様           (林家文書)
 
 この文面のはじめ部分の「丑年」は明和六年を指す。この年から定免法になっている。定免期間は不明だが、期限が切れて、又願次ぎで、この安永五年から同九年までの五か年の定免を願い出たわけである。理由は「村々一統困窮」で特に安永四、五両年の麦の不作をあげている。また、この文面に挿入の形で「落合村の儀ハ宿方之儀ニ御座候得共、往還之役多仕……略」とあって、往還諸役の多いことを落合村についてはいっている。以上より、久々利方村むらの定免のはじまりは、木曽方とほぼ同じで、明和六年から始められたと考えたい。
 なお中新井村、久々利方免定によると、この明和六年より安永七年までの一〇年間割賦で米二石を拝借し、無利子で一年に二斗あて返納をしている。このことは、定免法の村方困窮を救う決め手というより、このように免の一定期間を設定して、何らかの有利の手を百姓側は引き出そうとしていたのではないかと考えられる。このことについて次の文書がある。
 
      御請
  当年御定免御切替年ニ付 先概定免(前の免の通り)之通被仰付被下置右年限中御救米等被仰付被下置候様御願申上候得共不相応之御願ニ付御時節柄之御義 御願申上候通ニハ御聞済難被下置然共 追〻難渋之者共も御座候趣被為聞候ニ付 当申(天明八年)ゟ来ル戌(寛政二年)迠三か年之間先概御定免被仰付以御憐愍右年限中為御救米弐石宛被下置之候間弥〻年皆済ニ急度取立指上可申旨方ヘ年限中不作等御座候而 彼是御願申上候共三分以下之損毛ニ而ハ御取上不被下置候間右之趣未〻之者迠も不洩様ニ可申聞置旨 右被仰渡候趣奉畏候依之御請印形仕指上申候  以上
  天明八年申九月  中新井
              村百姓代
           辻原     長蔵
           同断 組頭  庄六
           同断 庄屋  義兵衛
  久々里
     御役所
 
 この「御請」は、定免条件について誓約をしたものである。条件をみると、次の三点が主な点である。
 ○先概定免で三か年の期間であること。
 ○この期間に二石の救米を出すこと、この救米は年賦で皆済すること。
 ○期間中不作であっても それが三分以下ならば そのままであること。
 中新井村の現存免定では 元文三年(一七三八)から「救引」という引高があらわれてくる。なお「三分以下」ならそのままは幕領と同一である。
 久々利方村むらの一例として、千旦林村枝村中新井村、辻原の免定などから、定免法関係を年代順にまとめたのが、Ⅱ-42表である。

Ⅱ-42 千旦林村中新井・辻原の定免関係年代