御納置申上候口上覚
当村之義寛保三亥ノ年(一七四三)ゟ去未ノ年(天明七年 一七八七)迠五ヶ年切四拾五年御定免奉願 御年貢上納仕来リ候然処右年数之内大雨之節 度々赤土水等流込土地悪敷罷成候と存候田所も数ヶ所有之其上田畑之こやし等苅取候山も相成殊ニ近年度々凶年ニ付 御百姓共内証甚困窮仕候而こやし手入等も不足ニ罷成次第ニ作物取入も減シ候様ニ相成 猶又凶作ニ付近年作人も両人減シ追々御田地作廻りも難成様ニ罷成迷惑至極ニ奉存候 依之当年ゟ御検見取ニ御願申上度奉存候得共小郷人之村(青野村五戸)方故差支候義も有之 御検見取御願申上候義茂難仕候 何卒以御慈悲を 当申(天明八年)ゟ子(寛政四年)迠五ヶ年之内毎年高三石五斗程づつ御救引被下置御定免被仰付被下置候様ニ御願申上度奉存候 願之通被仰付被下置候ハバ難有仕合可奉存候 右之通御慈悲御願申上度御内進申上候 以上
(天明八年)申 七月廿一日 青野村組頭
弥之右衛門
同村百姓代
弥八郎 (阿木青野鷹見家文書)
Ⅱ-43 阿木村枝郷青野村の定免関係年代
以上から
○青野村は寛保三年(一七四三)から、定免法がはじまり、Ⅱ-43表のように、寛政四年(一七九二)までつづいたこと。
○この間の水害、殊に天明に入ってからの、たびたびの凶作(天明二、天明三、天明四、天明六、天明七)で甚だ困窮してしまったこと。
○できれば、天明八年(一七八八)から検見法にしてほしいが、青野村は小さい村であるから、この村だけ検見法にしてくれともいえない。
そこで、天明八年から五か年のうち、毎年三石五斗程ずつ救引してほしいこと。
の三点をあげることができる。
この口上書は同年七月廿三日 岩村領役人の手にわたったが、同役人は同年八月二日に、この口上書でなく、先ず、通用之御定免願書差上候様ニ仰付けた。
それで、組頭弥之右衛門らは、同日(八月二日)付で、次のような願書を提出している。
奉願御定免之事
当村之儀六年前卯年(天明三年)ゟ去未年(天明七年)迠五ヶ年御定免奉願候処 願之通被仰付去未年迠ニ年季明申候 依之又候当申年(天明八年)ゟ子年(寛政四年)迠五ヶ年之内去未年迠之御免合ニ而御定免奉願候 尤村方惣御百姓共相談之上奉願上候 右奉願上候通御定免被仰付被下置候上ハ御百姓共ハ不及申上私共難有仕合ニ可奉存候 以上
申八月二日 弥之右衛門
弥八郎
遠山円右衛門様 (阿木青野鷹見家文書)
これが村方から提出する通常の定免願次(ねがいつ)ぎの文書であろう。前の五か年と同じ「免合」で定免してくださることを、村一同相談してお願いします。この通り仰付くだされれば有難き仕合せという願いである。
同年八月二日、願書提出日に、この願いは聞き届けられて、翌三日に「定免請証文」を差し上げている。それから改めて、前記した救引願書を再度提出している。この経過の中に定免法実施の形式を知ることができる。
参考までに、享和三年(一八〇三)分の「定免請証文」を次にあげる。
御定免御請証文之事
当亥(享和三年)ゟ卯(文化四年)迠五ヶ年御完免之内
一、本田 四ツ壱分七厘
同断
一、新田 壱ツ五分
外
一、米三石七斗 見取
一、米壱斗三升六合 元禄十五年ゟ見取
一、享保年申御改新田 壱ツ七分
右は当村之義寛政十戊丑年(一七九八)ゟ去戌(享和二年)迠五ヶ年御定免ニ而御年貢上納仕来リ候処 去戌年季明義候ニ付又候去戌年迠之御定合ニ而 当亥年ゟ来ル卯年迠五ヶ年之内 御定免奉願候処 御願御定免被仰付奉畏候、尤五ヶ年之内風損水冷旱損等其外御同様之損毛有之候共三分ゟ内ハ引方御立不被下候間 御定免御極之通無相違御年貢上納可仕候 別又凶年ニ而三分以上之損毛有之候ハバ 御見分之上破免被仰付、御引方御立可被下段被仰渡奉畏難有可奉存候 村中大小之百姓共江申聞急度為相聞可申候 為後日之御定免御請証文仍而如件
享和三癸亥年六月
青野村組頭 弥之右衛門
同村百姓代 半 七 (阿木青野鷹見家文書)
損耗が「三分以下」なら定免合の通り「三分以上」なら検分の上破免する。このことは久々利方の定免と同じで、どの大名についても共通している。
青野村は阿木村の枝村四つの中では小さい方の村である。最大枝村は広岡新田である。この広岡新田の貢租関係は、正式に村が成立した元禄期から、文久に至る一六〇余年について、年貢免定、皆済目録などで、ほぼ知ることができる(市史中巻別編)。これによると、定免は青野村同様、寛保三年よりはじまっている。