(1) 山年貢について
天和-貞享の内検後には、
①中津川村では
一 米五石七斗四升 年々定納山年貢(野山年貢明細帳)
なお川上については、小川権蔵日記によると
川上村願木出立之被 残間尺相改木口印入候節昼支度之儀 願主之所ニ而致支度候得共□物帳ニ記スニ不及 庄屋方ニ而致支度候節ハ口物認置候事
但御百姓持林ニ而元伐仕出之分 御運上無之候事
②手金野村では
一 米壱石八斗八升六合 右村山年貢
とあって、木曽方二か村の山年貢を知ることができる
元禄七年(一六九四)の「野山御改書」(花の木集 向井浅三郎編)によれば
③美濃国恵那郡千旦林村所有山
一 総山六百四拾八町八反余
此山御年貢米壱石弐斗
山村八良左衛門百姓ヨリ地頭ヘ上納
とあって、千旦林村三百石方(山村八郎左衛門分)は山年貢を納めている。
同じ元禄七年の茄子川村の「野山御改書」には、
④茄子川村野山御改書
一 高千九拾弐石六升 恵那郡茄子川村[尾張領蔵入分]
内
四百八拾弐石九斗五升九合 御蔵入
山村甚兵衛
六百九石壱斗壱升 千村平右衛門
千村助右衛門
惣山六百五拾九町六反 無年貢
内
九拾六町分 百姓扣
内
拾三町四反四畝松山
五拾六町五反四畝内
四拾弐町壱反歩草山
拾壱町五反六畝分松山
四拾町六反歩内
弐拾八町五反分 草山
此年貢米 弐石七斗八升 上納仕候
右之内
高廿六石六升八合六勺 山主作右衛門
五反分 さい神山
高九石弐升七夕 山主 彦七
□□□□ とうヶ山
高廿弐石六 百姓四人
弐町七反六畝歩 下林平
高拾石九斗九升三合三夕 山主 清兵衛
五畝歩 坂上平
高三拾七石三斗一升九合 山主 孫次郎
弐町 石塚平
~以下 山主 九名分略~
百弐拾町 奥山村中入相草山
是ハ御旗本領(釜戸方 馬場氏方)共
甲蔵川渡舟渡平
弐百四拾九町 村中入相寺井細□
無不残はと吹草山
百九拾四町 村中入相 はげ
湫山
一 拾八町 諏訪大明神 松木山
但四間ゟ八間迠 社守林草山共
右之通相違無御座候 以上
恵那郡茄子川村御蔵入庄屋 助次郎
同 組頭 忠左衛門
同断 作左衛門
山村甚兵衛庄屋 紋兵衛
同 組頭 長八
千村平右衛門庄屋 新八
同 組頭 甚右衛門
千村助右衛門庄屋 杢右衛門
同 組頭 佐助
今井佐次右衛門殿
①と②は共に木曽方であり、山年貢については、美濃覚書、中川旧記にもでている。③の千旦林村は「三百石方」と呼んだ山村八郎左衛門関係が山年貢を出している。④の茄子川村については「惣山 無年貢」としているが、百姓扣の九六町分については、二石七斗八升を山年貢として上納している。又、百姓扣の山主約一七名の名前をあげている。
その他の尾張領関係は、よく分からないが、山年貢をまとめると、Ⅱ-44表のようになる。
Ⅱ-44 中津川・千旦林 手金野・茄子川 山年貢について
なお、明治になって差し出した明細帳(市史中巻別編七一三頁)によれば、茄子川村の木曽方(山村方分)で「山林年貢なし」としているのをはじめ、落合村久々利方、千旦林村木曽方、中新井村久々利方、茄子川村久々利方などの明細帳は、いずれも「山林年貢なし」としているし、その他、市史中巻別編にのせた明細帳には「山林年貢」の記事もない。これは一つの推定として、山年貢が本高化して、含まれていたためであろうとも考えられる。
(2) 山年貢以外の小物成 山年貢以外の小物成について、尾張領の美濃国内の他の村では、茶年貢、栗年貢などがある。浮役では、鹿皮(裏木曽三か村)、紙舟役(神渕、坂之東、切原)、川役(板取)などがあるが、中津川市関係村の場合は、くわしくはわからない。その中で「中川旧記」によれば、中津川村では、
入薪丸役半間持米三升かえ、縄、干いくち茸(たけ)壱苞
明細帳には
米弐石弐斗四升弐合 小物成
と出ている。中川旧記には さらに 薪については、中村、実戸、上金、北野、子野の本百姓五〇軒から半間分あてを納めること(代官役所用)、干いくち一苞を同じく納めることが記されている。
また小物成と、いいきれないが、天保一二年(一八四一)より幕末まで、木曽方(山村方)中津川代官所手代を勤めた小川権蔵が「御運上銀」として、次のものをあげている。
一 東役宅裏垣根毎春御門屋結直し候 足ぼや御用人足ニ而為代候事
一 御用栗葺板 代金壱両ニ付八千四百枚 但壱束弐百枚づつ 壱把弐拾五枚にて八苞ニテ壱束
一 箕皮御運上 百五拾枚ニテ銀壱匁
一 中村 実戸三村内上金 子野 北野也
右役縄被仰付候十二月代被下候
縄 壱束ニ付代六拾文
同 壱把 六文
一 御役所井戸桶側取替
労役のようなものをあげているし、これらを「御運上銀」としている代官所手代の分類法についても、その理由は分からないが、小物成的な部分もあるので、ここにとりあげておくことにする。
(3) 茄子川蔵入方の「口七合」茄子川村蔵入り年貢割帳をみると、取米の次に「口七合物」というのがある。Ⅱ-45表によると、五石三斗四升七合 口七合物となっていて、取米に対する割合は、約三・七五%となっている。「口七合」とは、口米と七合物という意味であろう。七合米とは、年貢一石に対して七合を徴収(尾張藩石高考)することで、その意味では付加税である。その由来はよく分からないようであるが、租法摘要(県史史料編近世三)によれば、
元名古屋県ニ往古油荏(あぶらえ)等之納物有之候処 承応の頃(一六五二~一六五四)ヨリ米に引直シ 七合物ト唱エ米納之分而巳本米壱石ニ付米七合宛取立来候 右ハ同県下ニ限リ候課役ニ付、当申年(明治五年)ヨリ免除之儀 伺中ニ御座候
とあって、はじまりは油荏(え)の納物であったが代米になっていったとしている。
Ⅱ-45 茄子川「蔵入分」年貢割帳(年不詳)より(篠原家文書)