以下Ⅱ-47表のア~ケの順にみていこう。
アの林年貢は百姓林に賦課したものであって、元禄七、八年~同一四年に実施されたものである。山村瀬兵衛の貢租増徴策によって、諸職人運上、薪運上とともに強化されたものである。瀬兵衛は独断専攻型で領内には批判の家臣も多かったし、増税は当然ながら、領内百姓の反感をかった。このことが丹羽氏改易の原因となっていった。
この林年貢の賦課のややくわしい様子をⅡ-48表にまとめた。同表によると、田畑の検地と同じように、場所(地名)、山林の種類、長さと横で示した面積、林の石盛(上、中、下の三段階)、年貢、名請人などになっており、くわしいものである。
これは飯沼村枝郷大野村の例であって、百姓家数一四軒の小村(うち高持百姓一二軒)であるけれども、百姓持林をもつ家は七軒となっている。最大は作右衛門の松林四三間×四〇間、最小は伝三郎の雑木林五間×三間である。
Ⅱ-47 岩村領阿木・飯沼の小物成(元禄一六年差出帳より)
Ⅱ-48 飯沼村枝郷大野村の林年貢(元禄一六年差出帳)
イ藪年貢は家の裏、田のはずれなどにある竹藪についてのものである。これは二つにわかれていて、検地対象の年貢地が藪となったものと、そうでない藪とがある。前者は現状は藪でも免除が検見で決定していない限り、正租(本途物成)の内であるから、竹を差し出すということはない。後者の藪は検地外の竿除地であるから、毎年一定の税をだすことはなかったが、岩村当局はその必要に応じて、竹の供出を要求したようである。
差出帳は、このことを「御用ノ節ハ見分の上 伐リ出シ 岩村マデ附届御事」としている。その量について正確のことは分からないが、飯沼村で二ヶ所の藪で竹一束または半束であるから、単純比例で考えると、藪七八ケ所の阿木村は三〇束くらいであろうか。いずれにしても、岩村城下まで付け届したものである。
ウエオの餅米、大豆、小豆などは正租の米納のかわりに、大豆、小豆を納めるものであるから、小物成ではない。大豆一俵(四斗、二升込み)が米三斗三升三合の比率になっている。なお阿木、飯沼にはないが、大麦、小麦が米のかわりになることがあった。
カキクの糠(ぬか)、藁(わら)、草などは、原則は「古高百石ニ付二石一升」である。この割合で代米上納しなければならないものは、ここにあげた三つの外に薪、夫米などがある。これらを村の実情に応じて、より多く上納しうるものを考慮したり、水害による高減分を差し引いたり、出高については夫米は免除したりすることもあって、古高に対しての割合は原則通りにはいかない。
阿木、飯沼両村とも、こうした関係で「古高百石ニ付一石六斗八升三合四勺」の割合になって、糠、藁、草を中心に代米上納している。これらは古高割であるから、Ⅱ-47表に示す通り、広岡新田などは負担していない。
ケの榑(くれ)、角木の上納について、広岡は城御用の角木、檜枌(そぎ)板を上納しているのは、正租以外のもので、御用杣の無高百姓がいたようである。
大野村の慶安三年(一六五〇)以前は正租それ自身が「椹榑(さわらくれ)」五六丁であって、小物成というものではないと考えられる。勿論、同年以後は年貢米となる。
同様の性質のものに、青野村の元和九年(一六二三)以前の「しし皮三枚」の年貢がある。Ⅱ-47表にあげたもの以外に、飯沼村差出帳に「納申来候儀無御座候」として記載されている小物成などをあげると次の通り。
大麦、小麦、夫金、縄、御用薪炭(束三尺まわり、薪は馬一疋付三〇〇文、せおい一人付一五〇文)、御用萱、納紙、漬わらび、御用葦(よし)、紙草、漆、たばこ
なお臨時のものとして、義務付けられていたものに、阿木、飯沼支配の代官所であるところの東野村陣屋葺替の萱(かや)、縄、藁の負担があった。枝郷大野村では萱二〇〇把を差上げている。