両村とも医師をのぞいて、「農間稼」であって、農業収入を補う程度という感じである。明和七年(一七七〇)飯沼村藤四郎の日記(宮地日記・市史中巻別編八七七頁)に副業として「紙屋」の記事がある。
それによると、御用米のはかり合いが終了した翌日に第一回の紙すきを行い、それ以後、紙こしらえ、紙こもつくり、紙干し、楮つけ(上村へ)、紙うりなど四月下旬までつづいて、それ以後は、紙の記事はでていない。
藤四郎の紙屋仕事は、名古屋の紙商人の手代が来たりしていて、かなりな量をこなしているし、使用人もいるが、農間稼の形態以上にはでていない。この藤四郎紙屋に対する紙運上については、不明である。
丹羽時代で、山村瀬兵衛が中心に地方支配を行っていた元禄七、八年より六か年の運上、冥加が元禄一六年の差出帳(市史中巻別編)にある。
○他領へ出稼の桶屋に対して一日付一分の運上。
○細工大工一日に付銀五厘の運上。
○大工は一年に六日相勤めるか、銀七匁二分を上納(この場合の大工は半役大工で、本役なら一二日相勤めること)。
○阿木、飯沼ではないが、薪運上、たばこ運上、鍛冶運上、酒屋運上、紺屋運上がある。
○商人に対しては「商人札運上之義 御札壱枚ニ付 壱ヶ年に銀五匁宛上納仕候 御礼請取候節は 庄屋手形指上申候」
○「紙草之儀先御代(丹羽時代)より他領エハ売申儀無御座候 御領分エハ売買申候」とある。
Ⅱ-49 阿木・飯沼の農業以外の稼について(明細帳より)