尾張領の運上、冥加

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湯舟沢(尾張領)と落合、中津川、駒場、手金野(手賀野)、千旦林、茄子川の尾張方給人領六か村のことであるが、諸運上の上納先及び水車運上、大工札、冥加米などを中心にまとめる。
(1) 運上の上納先について
 茄子川内の蔵入分と湯舟沢を除いて、尾張領給人知行地であるから、正租と山年貢などの小物成は給人が上納先である。
 運上、冥加には、大工、左官、木挽、桶工張師、傘張、瓦屋、綿布銀(以上中津川村)、質屋、大工、木挽、綿布銀(以上駒場村)、酒造、質屋、瓦屋、大工、杣木挽(以上落合村)、杣木挽、大工、伯楽、桶屋(以上千旦林村)、陶窯、瓦窯、酒造、木挽、伯楽、大工、桶師、綿布銀(以上茄子川村)などであるが、上納先は、尾張領(明細帳では名古屋藩)である。わけて記せば、綿布銀、酒造、質屋株が太田陣屋であり、大工、左官などの職人運上は藩御作事役所が上納先である。
 このことは、職人、商人の免許権は知行主である給人(山村氏、千村氏)でなく、尾張領自身であることを意味する。手金野(手賀野)村の平八が太田陣屋(太田代官所)へ提出した薬屋営業許可申請がこれを示している。
 
   乍恐奉願上候御事
一 龍気圓 但癇癪と瘡疹薬
一 延春丸 但気付万病薬
右薬之儀ハ先祖より家方(法)ニテ家内並ニ親類之者共エモ指遣追々相用候処 薬能有之病人之助ニ相成申候 然処私儀元来虚弱ニテ農業等モ行届キ兼困窮者ニ御座候ニ付右法製薬仕売弘メ候ハバ相続方一助ニモ相成 乍恐諸人助ニモ相成候儀ニ付 売薬之儀 御免被成下候様仕度奉願上候 右御聞済被成下候ハバ揚看板ヲモ仕売弘申度 此段モ奉願上候儀ニテハ 重〻奉恐入候御願ニテ御座候得トモ諸人之難儀ヲ相救ヒ候為ト 御国中エ売弘メ度ト奉存候間 何卒所附 御伝欠御支配郷宿エ相頼右御支配所村々エモ売弘メ申度 是等之儀モ御聞済被成下置候様仕度如之薬方書相添エ奉願上候 以上
文化十二年   手金野村
 亥 五月       平八 印
山田東一郎様
  御陣屋
右平八郎御願申上候通相違無御座候 願之通被 仰付下置候様於私ニモ奉願上候 以上
        右村庄屋
            利助 印
 
 家法として伝わった薬をうりたいこと、看板をあげること、御支配下のむらむらへ売りこみたいことの三つの許可を太田陣屋太田代官所に求めている。
(2) 水車運上について
 明治初年の中津川村明細帳に「水車弐拾五口 運上銀百弐拾五匁(但御地頭山村甚兵衛様江相納)」という記事がある。
 大工など、他の八口の運上が尾張領北地総監所[太田代官所太田陣屋]であるのに対して、水車運上銀のみは地頭、つまり知行主である尾張領給人山村甚兵衛へ上納している。
 尾張藩古義に「中津川 車屋始之年号不知運上なし 其内給人江氷餅之米舂指上候儀 御役に仕候旨」とあるし、徇行記には、中津川水車運上について、「尾張藩古義に運上金なし 是は給人(山村甚兵衛)へ氷餅の米舂差出す事」の意のことになっている。
 いずれも、水車運上銀を尾張徳川家へ上納するかわりに、給人山村甚兵衛の氷餅米をついて差上げることをいっている。氷餅は尾張領、苗木領、それに幕臣の性格をもつ山村甚兵衛ともに、幕府へ「時献上」物の一つとして、五月に献上している。その餅米をつくという労役を行うから、水車運上をとらないというのであろう。なお、山村甚兵衛(木曽方)各村へ氷餅米割附は次のようである。
 
  一 餅米 七石六斗   中津川村
  一 同  壱石弐斗四升 落合村
  一 同  壱石六斗壱升 手金野村
  一 同  三斗六升   正家村(恵那市)
  一 同  三斗三升   千旦林村
  一 同  壱斗三升   中新井村
  一 同  七斗三升   茄子川村
 〆拾弐石
 右之通被 仰出候 以上   (小川権蔵日記)
 
 これは、天保期の資料である。餅米合計一二石となっている。また同日記に
  水車壱ヶ所三軒ニ而取立右入用替リ金之節一方江出□候
 とあるから、実際には一つの水車について、三軒が負担して、金銭で差出していて、「氷餅米舂差上」はしていなかったとも考えられる。
 これは、はじめにあげた明治初年の明細帳の「水車二五台 運上銀百二十五匁」という記事と結びつけて理解することができる。すくなくとも、天保期以後は、銀差出しであったのではないだろうか。
 蜀山人の「壬戌紀行」に落合の与坂をすぎての記事に「下れば 左右に畑あり 又坂を下りて 小流あり板橋をわたりて 左を見れば水車あり」の記事があるように、落合にも水車はあったが、明細帳には記載されていない。このことは千旦林、手金野、駒場、茄子川も同様で、実際には、水車はあったろうが、その運上のくわしいことは、わからない。
(3) 大工札について
 明治初年の明細帳からわかる範囲で大工数及びその運上銀をあげると、Ⅱ-51表のようになり、給人関係村で運上銀を出す程の大工は、一九名以上がそれぞれの村に在村したことを示している。またその運上銀は三匁~三匁七分三厘程であったこともわかるし、大工札運上銀の上納先は「名古屋藩御作事役所」となっている。

Ⅱ-51 大工運上について

 このことは、大工札免許と関連しており、享保八年(一七二三)頃よりはじめられた。同年の「在々肝煎江之書」(大工の世話係というべき者へ渡したもの)によりながら 大工免許の様子と運上についてあげてみると、
 
一 今度御領分中大工江札渡候ニ付□□□□之村々割渡候通(ア)組々大工江お渡□□□札そまつに不在□付不申
一 向後(イ)札無之者大工職一圓に不罷成候若札無之者我儘に致細工候ハバ大工道具取揚肝煎方ニ差置此方江可申達候事
一 年々(ウ)札改候間毎年十一月晦日迠ニ肝煎方へ札不残集置同十二月十日迠ニ名古屋江持参長太夫重右衛門方江相渡可申候翌年正月六日ゟ(より)九日迠之内ニ右両人方江罷越札請取 相渡可申候 若札そまつに仕、うしない申候ハバ 其者ゟ過料金出させ其上大工道具取揚大工職を免可申事
一 向後大工 罷成度旨肝煎江願申者有之候共□□□□□名古屋(エ)江罷出長太夫重右衛門ハ申達札請取相渡可申候
一 当(享保八年)卯年ゟ大工御役岐阜津嶋熱田名古屋近村右之分ハ御役(オ)一ヶ年ニ十二日宛 此外尾州(カ)濃州村々大工御役一ヶ年ニ六日宛相勤筈
一 御作事御田杁御用橋御用罷出候外ハ不残御役銀ニて指上ル筈ニ候 右御用ニ罷出候者も銘々之御役ゟ少 出候ハバ残ル分銀ニテ上ル筈年中十二日之御役銀ハ七匁八分 年中(キ)六日の御役銀ハ三匁九分銭にて差上ル筈 其節此方より可相触候
一 御用ニ罷出候大工之分ハ誰々ハ何方の御用何人罷出候と書付此方江出し可申事
一 右之通札相渡惣大工共御役相勤事ニ候間大工共江此外(ク)之懸リ物少も掛ケ申間敷候 若左様之事有之候ハバ急度可仰付事
一 遠方(ケ)ヘ参候大工有之候ハバ罷越候節御役銀之事札之事致吟味十一月中ニも不罷帰者ハ御役銀札吃度(きっと)定日ニ指出可申儀其所々之庄屋又親類之内ヘ為請合候上ニて差遣し可申候事尤他国江罷越候節も其通候
一 面々(コ)組々大工組之場江細工罷越候者ハ定ル御役之外ニ六日之役相勤壱年都合十二日分之御役銀上ケ申候-略-
一 面々相役有之者ハ其通壱人役之者ハ近キ中間と両人宛組合置可申候若(サ)病気等ニて難相勤時ハ組合之者取あつかい可申候其わけ早々此方江可申達候
一 他国大工細工ニ罷越候ハバ 其大工之宿の亭主肝煎請合候ハバ新銀拾弐匁出させ-略-旅(シ)大工札請取相渡シ-略-
一 御役銀持参致候節は頭之宅江参相渡シ可申候札請取戻し之儀其長太夫重右衛門方江可参候旦又札改者二人甚七紋左衛門此者共御領分中大工(ス)改之儀ニ付差遣シ候間左様可相得日
右之通面々改承知無相違可相勤候組々之大工共江も堅可申付者也
 享保八年(一七二三)     秋谷小兵衛
   卯六月    松本加平治
      尾州
        大工肝煎中
      濃州
             (ア~スの記号及び傍点は筆者)
 
 以上のような大工肝煎への通達である。これに若干の考察を加えるとすれば、
 ア 享保八年(一七二三)に大工札を渡しているが、大工はそれぞれ組をつくっており、その世話係、大工親として、大工肝煎がいて、組内の大工を取締っていたことがうかがえる。このことは他の職人についても同様であったであろう。
 イ 大工札のない者は大工細工をしてはならない。若しあれば大工道具を取り上げて、大工肝煎が差押えをして役所まで連絡することをいっており、大工肝煎の取締り権限を示している。
 ウ 毎年行う大工札改めについて、次のように指示している。
○一一月晦日-各大工は肝煎まで大工札を提出する。
○一二月一〇日-肝煎は名古屋へ出頭して、長太夫、重右衛門へ渡す。
○一月六日~九日-この間に右両人方へいって新しい年の大工札を受取ること。
 アイウから大工支配のしくみは次のように考えられる。
  物頭→総取締[長太夫 重右衛門]→大工肝煎→大工組→大工
 エ 新しく大工になりたい者は、大工肝煎へ願い出、それから総取締に申達して札を受取ることとあり 大工肝煎を通さなければ、大工になれない。
 オ、カ 役所に対する大工御役として、
○名古屋、岐阜など-一か年に一二日。
○在の村むら-一か年に六日(この日数は岩村領も同じ)。
 キ御役といっても、銀納する筈で、六日の場合は三匁九分を銭で差出すこととしており、明細帳が記載する運上銀にほぼ一致する。
 ク この大工運上の外は一切物掛けなし。
 ケ 遠方又は他国へいく大工の場合は、大工札、御役銀が定日までに提出できるよう気をつけること。
 コ 大工が他の組へいって仕事する場合は、御役の他に六日分、都合一二日分の御役銀を差出すこと。
 サ 大工が病気で勤めれない場合は組合の者でとりあつかい、役所へ連絡すること。
 シ 他国から旅大工がきた場合は新銀一二匁の運上を課す。
 ス 大工札改で領分中差遣わす者の名前は甚七、紋左衛門の二人であること。
 などがあげられ、大工に対する取締りと運上及びその利権保護の様子がわかる。この方式は大工のみでなく、他の職人も、ほぼ同様であったと考えられる。例えば瓦屋については、北野の加藤家がこの近辺の肝煎であった。酒株については大井村九郎次郎、喜左衛門、加子母村善右衛門が濃州分裁配人として、東濃地方では名前がでている(尾張藩古義)。
(4)冥加米について
 運上、冥加は正租に関係する田畑以外の特別の収入や利権に課せられるものであることはすでにのべたが、そのうち一定の税率を定めて上納するものが運上であり、率が一定していないのが冥加である。だから運上は租税に明確に入るが、冥加は献金的性格をもっているといわれている。しかし、それ程の違いは実際上はなく、共に支配財政の窮乏と比例して、冥加の比重は増していった。
 ここでは商人の出す冥加でなく、その献納的な語意のためか、百姓が流失後の田畑起帰しや、野畔伐起の場合の上納米について「冥加米」という言葉が使用されたことにふれておきたい。例えば
 
 一 米六斗一升弐合 川上御百姓共流失後
           追々御願申上起場所仕
           候付辰年ゟ(より)御冥加米一
           石二斗五升ヅツ差上来
           候処一升八合弥兵衛 五
           斗孫右衛門 一斗二升又
           右衛門 子七月流失ニ
           付御用捨被仰付候
 
 のように、起帰の場所を正式に調べて、納米を課する形式でなく、冥加という献納の形で切起し場所より上納させている。実際は見取上納と変らず、正租の一部とみるべきであるが、冥加米といういい方をしているので、ここにあげておく。「中津川納目録」(市岡家文書・萬覚書)によれば、こうしたものが一七件、約三石ある(Ⅱ-52表)。

Ⅱ-52 冥加米の納入・理由など

 流失田畑の切起田畑や野畔切起畑の許可について、冥加米を出すというのでなく、大名、知行主が何か大きな事件や出来ごとがあると、何かと理由をつけて強制献納させる例は幕末に近付くにつれて多くなる。これらを「冥加米」と呼ぶこともあった。その一例として、山村甚兵衛知行関係ではなくて、岩村領の広岡新田について、「御殿様江御冥加米附立仕覚帳」をみると、安政二年九月、八歳で家督を相続した乗命(のりとし)は、相続についての冥加を翌安政三年に命じている。広岡新田では、これについて、庄屋宗十、組頭鉄蔵、政右衛門、百姓代弥左衛門などの村役人は、それぞれ一斗、他の百姓は、四升から一升、合計六六六名が冥加米を納入している。また明治初年の明細帳によると、日比野村、上地村、瀬戸村の苗木領関係三か村について、
 一 米四拾三石九斗弐升壱合弐勺七才
       口米 小役米 利米 冥加米
       上納 (日比野村分)
 となっている。