課役は「村高百石ニ付」どれ程と課せられる役で、本来は労役を課せられるものであった。しかし、代米納、代金納の代納制が発達して、それぞれの目的をもっていた課役、またはその代納米・金は、本来の性格がうすれ、租税の一部と化していき、たまたま発生する臨時の課役には、別に負担を申付けて徴収する場合が多くなった。従って、江戸時代を通して、このような負担で、こんなしくみというようにまとめることは難しいが、この課役は代納である場合にしろ、労役そのものであるにしろ、著しく百姓を苦しめるものが多く、その負担は正租以上であったともいえる。
①領内の河川、堤防の維持と改修など。
②中山道など主街道の施設維持と公用交通の確保。
③領内の道路、橋などの維持または改修など。
④臨時に幕府が諸大名に下命する、軍役、普請役。
⑤役所の指示により、年貢、御用物を運送すること。
⑥奉行、代官など役人の廻村についての人馬提供。
⑦城郭、陣屋の普請、修理に必要な人馬、物品の提供。
⑧村の溜(堤(つつみ))、用水、井溝などの維持、改修。
⑨村入用諸費用の負担及び労役。
⑩支配財政窮乏化によって、課せられる臨時の負担。
①、②、③、④、⑧にあげた河川、道路に関する負担が大部分であるが、その実施主体が④のように幕府である場合を国役普請。①、②、③、⑧の一部は普通では、諸大名が実施主体になる。これを御普請。③の一部と⑧の大部分は、それぞれの村が、その費用で多くを負担しなければならなかったが、これを自普請と呼んだ。共に百姓の負担であることに変わりはない。河川の底をさらえ、堤をかたくする「川除(かわよけ)」の仕事は、農業生産を保障することであり、年貢上納を百姓に義務付ける以上、本来は知行主が収納した中から負担すべきであろう。その意味では、⑧について、例えば中津川村では「当村内井係米として上ゟ(より)被下置候事 壱石八斗四升三合五勺一才当御蔵ゟ(より)御渡被成候」とあるし、さらに「上中井高(第一、二用水)扶持壱石七斗 下井七升(第三用水)三合七勺 右之通り被下候事」(本陣萬記)とあって、維持のため費用を知行主が負担している。しかし、度々の水害による用水破損は、知行主が負担する金額だけでは出来ず、元治元年五月二八日の出水破損の手金野第一用水の場合は、中川萬兵衛(当時庄屋)が八〇人、吉田小左衛門が二〇人、村方全体で一〇〇人、計二〇〇人分の人足賃(一人当一升五合四勺)を負担している(吉田三代記吉田家文書)。このように、村方への負担は、更に増加されていった。
②と③の道路、橋、及び公用交通の確保についても河川と同様であるが、中山道など主街道の交通確保と施設維持は幕府の道中奉行の支配をうけ、各知行主、村へ負担がかけられてきた。中山道中津川宿についていえば、道なおし、道掃除は自普譜、中津川、四っ目川、淀川の橋は知行主、子野川、地蔵堂川の橋は中津川、落合両宿立合普請となっていた。中山道以外の村の道と橋は大部分自普請である。交通の確保については、百姓にとって最大の労役である助郷があった。
⑥の廻村については、すでに検見の項で述べたような負担があるし、⑤、⑦、⑩についても知行主によって異なるが、それぞれ負担を課している。⑨の村入用については、その村の自然立地条件、慣習によって異なるが、村の事務執行について、支配者下命の直接的課役ではないが、負担しなければならなかった。
以上は課役の大略である。
次に知行主別に高懸りの様子、名称、特色をとりあげてみよう。