(1) 夫銀について
前記⑧にあげたように、村で堤川除、井溝などが破損をした場合は、その村の高持百姓(元禄八年から 美濃では一石以上)から鍵役(かぎ=自在かぎ、を釣し候程の家 高に関係なく一軒から一人出る義務)で 三日は「破損修理可二申付一候」となっている。これを三日役という。
「其外人足入用之所は公義ゟ(より)可レ被二ニ仰付一候旨 慶安四卯二月触有レ之」とあって、三日役で不足する分の人足を役所から出すことを定めている。これにあてるために領内から徴収した役銀が夫銀である。その実施と金額について
「御蔵入分 寛永六巳年始 高百石六十匁 給知分同十六卯年始 高百石六十匁」
となっており、さらに金額については、寛文八年(一六六八)より倍の銀一二〇匁になった。
(2) 堤銀について
寛永五~六年(一六二八~一六二九)よりはじまったと伝えられる。この役銀の目的は、木曽川の尾張側をかこった御囲堤をはじめ、河川の堤防の築造、改修など、文字どおり「堤」のためであった。この堤銀の負担について、
右堤銀之儀往古ゟ春秋堤 定井 井堰 其外普請所有レ之節 某所近辺江高役ニ人足割符申付候処 普請所多近村は難儀に付其段願有レ之 然共遠所に申付候而は猶更難儀之事故 御蔵入 給地共概に懸り候積に御吟味相済-略-
とあって 河川に近い村、遠い村、あるいは蔵入地と給人知行地による不公平がないように考えたとしている。負担の額は高百石ニ付き、銀五〇匁が夫銀同様に寛文八年から銀百匁になっている。
Ⅱ-53 尾張領の三役銀(尾張藩古義)
(3) 伝馬銀について
尾張御領の美濃国分は、元禄八年(一六九五)から始められ、負担額は高一〇〇石に付き銀九〇匁であった。この役銀の目的は、領内の宿駅助成、助郷人馬の手当などで往還御用の円滑化であった。
享保一一年(一七二六)これら三役銀収入は、尾張徳川家の藩財政処理では、すべて一般会計となり、名前だけ残って、租税名となってしまった。そして、御納戸金支出として、川除、道路、橋、宿駅の人馬手当、村の救済費などが支出されるようになり、それだけに臨時の工事には、さらに百姓に負担がかけられる傾向となっていった。
さて、こうした三役銀が中津川市関係の村ではどのようになっていたか、次の四点をとりあげてみたい。
(1) 夫銀と山村甚兵衛、千村平右衛門らの知行所
山村甚兵衛(木曽方)と千村平右衛門(久々利方)知行所について、古義には「千村 山村知行所夫銀は不レ出堤伝馬銀は出す」とあって、木曽方、久々利方、両知行所の村むらからは、尾張表へ夫銀差出しをしていないことを、いっている。同様のことは徇行記にもあって、落合、中津川、手金野、駒場、千旦林、茄子川とも「夫銀不当」としている。また落合の塚田手鑑は「三役銀無御座候」としている。こうみると、木曽方、久々利方知行所の村むらから、夫銀差出しがなかったことは、確実であろうが、このことは何を意味するか考えなければならない。その一つとして、山村、千村の尾張領給人としての特殊性があげられる。このくわしいことは第二章地方支配でふれたところであるが、元来は家康の臣であったのが、家康の命で尾張徳川家に附属したものであり、まったくの陪臣でなく、山村の福島関所預り、千村の伊那地方における代官というように、その後も幕臣らしい職をもちつづけたという特殊性がある。この尾張領給人でありながら、一〇〇%そうでないという独立性が、正保の「石概(こくならし)」からも除外されたし、ここにあげる「夫銀不当」を引き出したのではないかと推察される。夫銀を尾張徳川家へ差し出さないことを、山村、千村の給人側からみると、それだけ知行所内の河川、橋などの改修に責任を持たなければならないことである。前にもふれたが、例えば川上川(中津川)・四っ目川などについて
一 河(川)上川板橋 長廿四間弐尺 幅弐間 山村 千村立合ニて御普請也
四目川 長五間三尺 幅九尺
淀川 長四間一尺 幅弐間
右山村ニて御普請之事 (市岡本陣萬記、古義では中津川縦橋 長一四間、幅九尺となっている。 傍点は筆者)
となっていて、中津川宿村内の主な橋の維持の責任は給人山村、千村にあった。
このために、尾張領役所へ出す夫銀としてでなく、給人として、村高を元にして、免許地分を差引いた川除高を課していた。弘化三年(一八四六)の本陣萬記によって、中津川宿村の川除高をみると、
当所川除高千百八十七石一斗弐升九合 内四季之勤人足数何程之引 内夫役四百拾弐人引残り 七百九拾九人八分一厘 外に八拾人両問屋免許 百人年寄五人免許 四十人実戸三村庄屋免許(子野、上金、北野) 二十人中村庄屋免許(享保十一年より免許) 〆弐百四拾人 合千三十九人八分一厘 右人数川除高 此分川除高千百八十七石一斗弐升九合之別也 内拾弐石八斗九升五合当時子野村彦右衛門無役ニ付引残リ 千七拾四石弐斗三升四合割 高一石付八分九厘かかり夫役壱人ニ付壱升四合 概一人付四合、扶持一升代七十文、無高礼分壱人ニ付三合八勺 右(弘化元年)辰年之初定也
とあって、中津川では川除高一一八七石余が定められており、宿、村役人の諸用人足分も入れて一〇三九人余の 人数が割りあてられ、それは高一石付八分九厘の負担であることなどが分かるし、夫役一人に付一升四合の賃計算をしていること、無高百姓も川除に狩出されていたことなどを知ることができる。なお弘化三年より九〇年前の同村「高寄帳」には「御川除人足割方」として一二九八石五斗七升八合をあげていて、弘化三年より、大きい数を示している。
このように尾張表に納める夫銀はなかったとしても、村としては給人へ差し出す 高一石に付八分九厘の負担があって山村、千村知行地は蔵入と比べて負担が軽かったわけでは、なかったであろうと考える。
(2) 堤銀と中津川・落合
尾張藩古義に「濃州宿々堤銀御免は寛永一六(一六三九)卯年之由宿々ゟ(より)書出」とあるし、徇行記には、落合宿(村)について「堤銀 寛永一六(一六三九)卯年より御免」とあって堤銀のはじまりより除外されていることをいっている。中津川宿と村については、元高一三三四石六斗三升のうち「此高の内五百石堤銀寛永十六年卯年より御免」とあって、五〇〇石を引いた八三四石六斗三升分には、堤銀がかかるとしている。これは中津川宿村は元高一三三四石六斗三升のうち宿としての伝馬高が五〇〇石であり、濃州宿々堤銀御免にそって、伝馬高分について堤銀を免除したものであろう。町といわれる分と中村、実戸、北野、上金、子野、川上の在(ざい)分にわけて、在の高分は、宿でない他の村と同じで、堤銀を課したのであろう。これに比べて、元高四八一石余の落合村には在と町の別はなく、元高それ自身そのまゝ伝馬高であるので、堤銀が免除されているわけである。つまり落合村は元高=御伝馬高=宿高というわけである。
次に中津川村の堤銀負担について「中津川村納目録」(市岡家萬覚書)には、堤銀と後に述べる伝馬銀、綿布銀について、次のように負担・上納について記している。
村方
綿布銀ハ高一石ニ付二分八厘也九月上納 高令之御褒美など江此分ゟ(より)被下候事
伝馬銀ハ同断 九分ヅツ 六月十月上納
堤銀ハ同断 一匁ヅツ 十二月上納
右ハ陣屋上納之事
はじめの村方とは中津川元高のうちの中村、実戸などの在を示すものであろう。陣屋は太田陣屋のことで尾張表への上納差出しを示している。堤銀高一石に付一匁は高一〇〇石に付き銀一〇〇匁にあたり、寛文八年(一六六八)尾張領が定めた基準と同じであり、毎年一二月に上納することに定められていたことを示している。
なお、宿でない山村、千村給人知行所の手金野、駒場、千旦林、茄子川などの村むらは、いずれも、その村の元高がかりで堤銀を負担していたものと考えられる。千旦林村枝郷中新井村の安政二年(一八五五)「卯堤御役銀(久々利方)并村入用諸役割賦帳」には次のように記されている。
堤御役銀弐拾六匁三分五厘
内
壱匁三分五厘 御地頭様ゟ(より)被下候
残而弐拾五匁 此銭金壱両ニ六メ六百文立 弐メ六百八十四文、高六拾三石四斗五升
但高壱石目ニ付四拾三文ヅツ
一 四百八拾文 義兵衛
一 百三拾七文 喜 助
一 弐百四拾八文 庄 六
一 七百三拾文 只 助
一 弐百五文 作右衛門
一 弐百三拾弐文 長兵衛
一 弐百六文 利右衛門
一 弐百拾壱文 彦五郎
一 八拾壱文 亦 重
一 四文 彦四郎
一 七拾文 伊兵衛
一 三拾七文 半 七
一 拾文 弥兵衛
一 百五拾七文 勘蔵
一 四文 長助 (中新井林家文書)
この中新井村の堤銀負担について、考えてみると、中新井村千村方(久々利方)の元高は二五石である。したがって賦課率の高一石に付き一匁からいって、銀二五匁を負担すればよいわけであるが、賦課額は銀二六匁三分五厘と銀一匁三分五厘多くなっている。
この多い分については地頭(知行主)である千村(久々利方)が負担するということになっている。何故、高にして一石三斗五升だけ多くかけられたかは分からない。一方、百姓からの差出し方については、この銀二五匁を銭に換算して、二貫六八四文と算出して、これを惣高六三石四斗五升(免定にある物成高は岩宿を除いて五六石八斗五升四合であって、六三石余の根拠はよく分からない。)で負担して、高一石について、四三文あてを負担している。なお地頭くだされの一匁三分五厘は年貢支払に差引き勘定をしており、実際にこれだけの金額が久々利方からさがるわけではない。
この中新井村久々利方と最も関係の深い千旦林村久々利方の堤銀は金一両二分しと銀十匁(天保一五年、同村御役銀割覚帳)である。これを村入用、組入用などとあわせて、銭で計算して高一石に付二六八文と算出して負担している。このように負担の仕方は村によって 少しずつ違うが、いずれも惣高にて負担することは同様のようである。
嘉永頃の中新井村久々利方の堤銀負担のありさまをまとめると Ⅱ-54表になる。
Ⅱ-54 嘉永年中 中新井村の堤銀について(御役銀幷村入用割符覚表-林家文書-)
(3) 伝馬銀と中津川
伝馬銀はその性格上からして、宿である中津川の場合などは、宿の運営やしくみと関係があるが、ここでは伝馬銀の負担の仕方の一例としてとりあげてみよう。
堤銀と同様に、元高の内五〇〇石(伝馬高)については、伝馬銀のはじまりである元禄八亥年(一六九五)より御免で、残りの八三四石六斗三升分にかけられた。その高割は高一石に付き銀九分で、毎年六月・一〇月上納であった。これは高一〇〇石に付銀九〇匁のことで尾張領の定めと一致している。つまり、中津川村への堤銀、伝馬銀の課し方は同質である。
しかし、ここで注意しなければならないことは、元高から五〇〇石引いた八三四石余についで、高一石に付伝馬銀九分を差出せということと、差出す側が、この基準に示された金額の取集め方法は別だということである。
このことについて市岡家の萬記には次のように出ている。
一 金六両壱分ト五分八厘六月上納伝馬銀 十月ト両度之分 金弐分三度飛脚賃 右〆金弐拾六両三分銀拾刄七分九厘 右町在川上共惣高へ一石ニ付壱匁九分ヅツニテ割符取集右之内ニテ前願上納金引去(貸付年々利足のこと)残金ハ伝馬役之者共へ遣之可申候事 尤伝馬役人手前ニおいて四十二役之者割符之事 [傍点筆者]
これによって六月と一〇月の上納伝馬銀の金額がわかるし、その他の伝馬役関係や、宿の飛脚代をあわせた全額を出して、それを町、在、川上まで含めた中津川村惣高で負担し、高一石について一匁九分づつを取り集めていることが分かる。伝馬銀は伝馬高五〇〇石を差引いた残高八〇〇石余にかかるのであるが、取り集めには、そうした区別なく中津川村惣高で割って負担しているわけである。また上納の仕方についても、取り集めた金額を太田陣屋(太田代官所)へ差出して、改めて中津川宿に伝馬御救金が渡されるのでなく、はじめから伝馬役の者共へ遣わす分を差引いて上納しているのである。このことは伝馬銀のはじまりの元禄八年から、このようでなかったであろうが、萬記の書かれた弘化頃(一八四四~一八四七)には、少くとも定着した方法であったろう。
同様のことを徇行記では「元高千三百三四石六斗三升伝馬役 宿かゝり物等、村総高にて割賦する也」と記している。
伝馬銀が取り集められ、宿へ渡された場合の分配の仕方やその金銀などについては第六章にゆずる。
(4) 三役銀と木曽方、久々利方六か村
本来なら現恵那市長島町である正家村も一括してまとめなければならないが、中津川市関係の六か村として、今まで述べてきたことも入れて、その負担をまとめると Ⅱ-55表になる。
Ⅱ-55 山村・千村両知行所の三役銀(中新井村入用割符覚帳-林家文書・明細帳)