中山道の川上川(中津川)にかかる長さ一四間(約二五米)や、落合の刎橋長さ一七間(約三〇米)などの大きな橋を除いた小さな土橋、板橋の修理を含めて、道の修理は、その村が受持つ自普請であった。
寛保元年(一七四一)より三〇年間、中山道が湯舟沢廻りになった時、落合宿は尾張領より年五両の手当金を受取っているが(塚田手鑑)こういう場合や、大通行の時は別として、自村内は自前で道普請をしなければならなかった。これも課役の一つである。
関係村の往還丁数は次のようである。
落合 凡三四丁 六間 (約三・七粁)うち三丁三五間町内(約三五〇米)
中津川 凡二六丁 (約二・八粁)うち約一〇丁は町内(約一粁)
駒場 一六丁 一間 (約一・七粁)
手金野 四丁三八間 (約五〇〇米)
千旦林 一五丁四七間 (約一・七粁)
茄子川 一五丁二〇間 (約一・六七粁)
道幅は町内は広くなるが、その他は約三間(約五米)である。
中津川市関係分は、この往還丁数が掃除丁場である場合が多いが、これについて中津川宿の場合、
往還扣丁場千五百五十四間 此内十丁七間町内往道ハバ三間四間 同右往道取繕作り方之義ハ自普請ニ御普請ニ御座候 誠ニ山坂多く打曲申候 小川所々に在之候 此往来掃除之義ハ宿内ニテ仕候 尤重キ御通行之節ハ宿内ハ勿論方々之村々へも申触掃除仕候 掃除丁場左之通 長八百八十七間斗横幅三四間 同宿横ゟ(より)三五沢上り方長六十間斗
とあって、前述のように大通行の時は他の村むらから掃除が課せられたことが分かる。