川並とは「川沿ひ」の意味であり、尾張、美濃地方の方言ともいう。川沿いの「川」は木曽川のことであり、木曽山の木材を伐出(切り出)して、木曽川をつかって材木を錦織まで流下させ、ここで筏にくんで、熱田白鳥木場まで運ぶ木曽材運送について、尾張領が百姓たちに課したものである。
この流木を管理する所を、川並役所(大湫・元禄七年設置)川並番所(落合、駒場、千旦林など)といった。享保一一年(一七二六)、中新井村の定免願いの中に「近年別して御役など多く 殊に川並御用かゝりござ候て難儀つかまつり候」とあって、川並役をあげて定免制実施の一つの理由としている。また享保一六年(一七三一)落合では
一 川並役 夜番 晝番
山口背負荷
遠七里役共ニ
壱人ニ付米一升
中津川江ハ五合と極事 (塚田手鑑)
とあって、川並役のなかに、夜番、昼番、山口背負荷(山口村からであろうか)、遠七里役などがあったことを示している。文政二年(一八一九)の「日吉川並夫役増銭上書」(瑞浪市史史料編)によると、川並御用人足賃銭が一日役は一人に付六二文、七里役は一人に付二〇文六分でこれは宝永年中(一七〇四~一七一〇)頃定めたものであり、年々銭相場は大さがりで、至って難渋しているから、これを五割増にしてほしいと錦織の川並陣屋へ願出ている。なお、この惣入用については、日吉郷一二か村が割合負担しているとも述べている。
以上三つの史料から、川並役の負担のだいたいの様子は推察される。
[参考]
乍恐奉願上御事
一 中新井村御百姓中連々困窮仕候処ニ近年別而御役等多ク殊ニ川並御用等懸(かか)リ御座候而難儀仕候依之奉願上候は立毛御免相之儀 享保元申之年ゟ(より)同巳ノ年迠十ヶ年之内 御免相元高ニ御概右概御免相之内弐分御引被遊当午ノ暮ゟ(より)戌ノ年迠五ヶ年之間 御定免ニ被為仰付被下候様ニ奉願上候 右申上候通 段々村困窮仕御役等難相勤至極迷惑仕候 何卒御慈悲以テ願之通相叶候様ニ被為仰上被下候者 難有可奉存候 以上
中新井村庄屋
享保十一年 長八郎 印
午三月 同村惣百姓代
八兵衛 印
辻原村同断
長 蔵 印
岩宿村
源 七 印
安東仁右衛門様
中村吉右衛門様 (同様趣旨で代官あてのも第四節石盛・三七七頁にあり)
日吉川並夫役増賃銭願上書には、川並ニ付入用かりの儀として
川並小屋入用薪 百文ニ付十束
同 縄 一わに付五文
を それぞれ五割増を願出ている。