[岩村領の場合]

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村の堤防、道、橋、陣屋、御蔵修理、年貢運送、助郷、臨時の国役などの労役以外は、米銭で代納するようになっていた。これを諸役米と呼んだ。
 諸役米の意味は、支配側に提供する役務労役と草、糠、藁、薪などの物納のかわりに、代米納することである。その基準は高百石に付き米二石一升であった。
 しかし、これが村の実情に応じて、入藁(わら)、入糠(ぬか)納などの物納の代米納の割合が多くなれば、役務労役(夫役)の割合は基準より減少するわけである。
 例えば、飯沼村では
 
古高百石ニ付諸役米一石六斗八升三合四勺宛之□ヲ以 石高三百六拾七石六斗八升之内八石四斗四升三合一勺 前々ゟ(より) 川成引残高三百五拾九石弐斗参升六合九勺九才江かけ、諸役米六石四升七合四勺宛、前〻ゟ(より)納来候 但 諸役米之儀 高百石ニ付 二石壱升宛ニ候得共去当村ハ入糠藁草納候故前〻ゟ(より)役米高□納来申候御事
 
 とあって、諸役米としては古高百石に付き一石六斗八升三合四勺の割合で上納している。阿木村では、古高については百石に付き一石六斗八升三合四勺と飯沼村と同じであるが、出高一三九石余のうち九七石余について百石につき一石二斗の割で上納を命じ、合計二七石六斗五升五合七勺五才を差出している(Ⅱ-56表・市史中巻別編)。
 飯沼村枝村の大野村については「当村は古高であるが、諸役なし、その理由は丹羽氏の慶安二年(一六四九)まで、大野村は椹榑長さ三尺、幅二寸、三方三寸の榑五六丁を年貢として納めていたが、同三年より米納にかわった。その節に諸役、御城米共に御免になった」(Ⅱ-25表・市史中巻別編六八九頁)として諸役米はない。
 広岡新田については諸役米なしとしている(市史中巻別編六八一頁)から、他の新田枝村の青野、両伝寺、福岡新田についても諸役米なしであろう。
 その他の労役についてあげると、次のようである。