千石夫代米とも書かれている夫代米は、岩村領の諸役米にあたるものと考えられる。
一 壱目ニ四斗五升宛 千石夫拾人分
銀拾六匁之代
但一回ニ一人ニ銀壱匁六分ヅツ
右日数閏月ヲ除貞享元年ゟ(より)壱ヶ年ニ米百五拾九石三斗づつ毎年勘定可仕候 米直段壱両ニ壱石八斗かえ 両かえ六拾四匁ニ閏月大小之指引年〻之日数ニ応シ勘定可仕候(天和弐年 完納発方上免并定納之内永引免帳のうち□米年小役夫代より)
とあって、一〇人分を一単位として代米納の高をきめ、それを更に直段にあわせて代銀納させていたようである。
元和六年(一六二〇)と推定される越原村[東白川村]など、苗木領北方村の「年貢諸役、小物成、納物之帳」に人役の覚として越原村六人、成山村三人など合計四〇人の人役割がでているから、村高にあわせて割賦されていたと推定される。
これらの総計、米にして一五九石三斗か貞享元年(一六八四)より、毎年上納されてきたとしている。