意義・分類

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諸大名が幕府への奉公として最も重要なものは軍役負担であり、諸大名は幕府の要請に、いつでも応じられる体制をつくっておかなければならなかった。
 しかし、実際問題としての軍役負担は、苗木領、岩村領の場合にも、江戸時代初期の大坂の陣(一六一四~一五)・島原の乱(一六三六)などで、それ以後はなかった。
 諸大名の幕府への奉公には、もう一つ手伝普請がある。苗木領でいえば、慶長一五年(一六一〇)の駿府城本丸造営、寛永一六年(一六三九)の江戸城本丸用材一万本伐出しなどがある。
 さらに奉公として重要なものに幕府の公式行事の役割を命ぜられる役割奉公がある。
 これら軍役的奉公、普請役的奉公、儀式行事的奉公の三つとも、その資材運搬、人馬往来などの負担を伴なうものである。これらの負担はいずれも、その領内の年貢以外の労役または割賦金として課せられており、特別会計的ではあるが、貢租の一つと考えたい。
 大名が公儀(幕府)に対する奉公の中で、特別、臨時のものをとりあげて、これを国役と考え、これらを軍事的奉公、普請的奉公、儀式行事的奉公の三つにわけて、ここでは、この分類によって、中津川に関係のある国役負担の一端をあげてみると
 (1) 軍事的奉公の代表例(第一章第四節苗木家家臣団参照)
  ①延宝八年(一六八〇)六月 苗木遠山氏の志摩国鳥羽城請取と城番。
  ②元禄一五年(一七〇二)七月 苗木遠山氏の岩村城請取(丹羽氏転封)と城番。
  ③宝暦八年(一七五八)一二月 岩村松平氏の郡上八幡城請取と城番。
  ④安永二年(一七七三)一一月 岩村松平氏・苗木遠山氏両氏が飛驒騒動に出兵する。
  ⑤慶応元年(一八六五)五月 岩村松平氏・苗木遠山両氏が長州征伐に従軍する。
 (2) 普請的奉公
 美濃の川普請は、県史によれば、次の五種にわかれる。
  ①公儀普請-幕府の費用による。
  ②御手伝普請-諸大名に費用の八割以上を負担させるもので、大規模である。
  ③国役普請-美濃国内の幕領、大名領、給知のむらむらへ課した役夫または役金によって施行する。寛文一三年(一六七三)以後は尾張、大垣、加納、高須の諸領は領内に水害多発地をもつため、国役が除かれた。そのかわり手限普(てぎり)請として施行しなければならない。
  元禄以後の国役は私領に限られ、人足を代銀で納めることが固定してきた。岩村、苗木の両大名は領内で国役普請が実施された形跡はないが、国役の負担はしなければならなかった。
  ④領主普請-各領主が費用を負担する普請。
  ⑤百姓自普請-むらむらが自費をもって行うもの。
 これら①~⑤の中で、③が苗木領、岩村領の公儀御用の国役川普請であり、元禄以後は代銀で納めることが固定してきたといわれる。
 (3) 儀式行事的奉公
 この中では、朝鮮人使節来朝、琉球人慶賀使来朝、日光権現祭、姫君下向などの負担がある。その通行のために施設をつくったり、荷物を運送したり、接待のためなどの諸負担である。