国役負担例

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三つの分類によって、その負担例をあげてみよう。
(1) 郡上八幡城請取とその負担
 幕政にまで影響を与えた郡上騒動は、宝暦四年(一七五四)の検見取実施反対にはじまり、同八年一二月二五日郡上八幡城主金森頼錦(よりかね)が領地没収となって終了する。この時に岩村城主松平乗薀(のりもり)は郡上八幡城の請取を同八年一二月に命ぜられ、翌宝暦九年(一七五九)二月一五日に江戸を出発した。乗薀は二月二四日に岩村へ帰り、軍勢をととのえて、三月九日に郡上へ向って岩村を出発し、同月一三日に郡上八幡城を請取った。岩村城主である乗薀は三月一六日には岩村へ帰城しているが、これから六月一七日の青山幸道(よしみち)へ城渡まで約三か月間岩村城主が八幡城を守備した。岩村城主の郡上八幡城請取連中は次のようである。
 
  家老 黒岩助左衛門(書役 小木曽條助)
  物頭 石寺十左衛門 柏平内
  用人 中嶋藤左衛門(書役 早川文治)
  大目付 千野十郎左衛門(下目付 山本平三郎)
  用付物頭 宇野勘右衛門
  武具奉行 比企伝五郎
  普請奉行 大山藤九郎
  馬廻 小嶋左源太、大山隼人、太田才兵衛、竹内唯八、佐々木又次郎、沢井市之助、江畑忠四郎
  医師 坂倉三徳、橋本祐広
  勘定方 佐藤定八
  足軽、中間、大工、合計二百四五十人 (青野鷹見家日記)
 
 岩村城主の八幡城守備部隊は、家老黒岩助左衛門以下二〇〇余名である。この人足、馬費用は臨時の負担として岩村領内の百姓に課せられた。
 
一 右御出張(郡上への出張)に付郷夫本田高百石ニ付三人程之積 郷夫被仰付候 今度ハ御人夥敷(おびただしく) 被召連候義 格別之御用ニ付出高新田諸役御除キ之村迠も御本田高半減之積リ郷夫可差出旨被仰付候 然共青野村 両伝寺村ハ小村故出人御除ヲ被下候 (青野鷹見家日記)
 
 とあるように、本田高(岩村領でいう古高のこと)は高百石に付三人、格別の御用であるから、諸役免除の出高や新田についても、高百石に付き一・五人(本田高の半分)の郷夫を出せと申付けている。ただ青野(五戸)両伝寺(八戸)のような小村は除かれた。
 この他に岩村から中山道大湫宿までの往来人馬賃銭を村割に課している。その一例を鷹見家日記によると、
 
一 銭八百拾壱文
右ハ郡上御用ニ付 岩村ゟ(より)大湫宿迠御往来人馬賃銭ニ而御座候
此度は格別之御用ニ付出高新田村迠茂本田高半減之積リ郷夫差出様ニ被仰付処 両伝寺村青野村ハ小村故出人御除ヲ被下候外、新田村ハ郷夫差出候 其上此度ハ右之通格別之御用ニ付出高新田村迠 御免定辻米高割合 当村出分右之通 竹折村庄屋半四郎方江相渡シ右之訳請取書取置申候 尤村入用書ニも右之訳御代官様江書上申候
右之銭卯十月一八日竹折村江為持遣シ申候
 
 とあって、郡上御用についての岩村-大鍬間の人馬賃銭は青野のような小村まで、免定の合計高の割合で課しており、そのまとめ役を竹折村の庄屋半四郎が受持っていた。割合の基準は青野村では「米一石ニ付 銭五十文六分掛」とある。竹折村庄屋半四郎は宝暦九年一〇月二一日に請取を出し、青野村は同年の村入用報告書に、この出費を記載している。なお、この臨時の出費全体は次のようである。
 
  郡上御用人馬勤目録
  惣〆銭五百弐拾七貫四拾八文
   内
  弐貫五百九拾壱文引 但御自分雇之賃請取有
  引残而 銭五百弐拾四貫二百五十三文
  右銭五十二村御免定納辻
  米高九千九百四拾三石八升六合
  割付 米壱石ニ付 銭五十六文六分取立候得ハ
  銭三百七十四文不足
  但此銭大割入用之内払余り
  銭三百七十四文有之ニ付 右不足銭江払差引皆済
  右之通立合割符相違無之候以上 (青野鷹見家文書)
 
 として、同年一〇月、岩村問屋伝六をはじめ岩村、竹折、野井、久須見、中野など、この関係取扱い庄屋名が記されている。このように岩村領内五二か村全部に米一石に対し銭一六文六分の割合で、負担をかけていることがわかる。
 また阿木村(阿木本村)の負担は次のようである。
 
  阿木村
  一 銭四拾四貫七百四拾四文
   内六貫弐百文 人馬勤
  差引残 銭拾八貫五百四拾四文  出分
(2) 安永の大原騒動出兵にともなう負担
 安永二年(一七七三)飛驒の百姓およそ三千人が徒党強訴に及び、大原代官にせまった。大原代官は隣国諸大名に使者を出し、徒党弾圧の加勢を依頼した。
 岩村松平氏、苗木遠山氏とも、この要請で出兵している。その人数は岩村領が約三〇〇名、苗木領は約二〇〇名であるといわれている。この飛驒出兵の様子を、飯沼の藤四郎日誌より、関係分をあげると、
 
安永二年一一月
一 十四日天気吉 飛州高山御代官大原彦四郎様御支配御百姓そうどう起 岩村之加勢頼ニ手代大山源助と申人暮六ツ時被参候 岩村より三好源太夫様 市川甚之丞様 岩村(松)藤市様 医師壱人 足軽六十人 長物拾八竿 駄荷弐拾駄 人足六拾人其外岩村近村より参リ候郷夫ハ不知 今暮合ニ当村山神御通り被成候
一 廿二日ゆきふり 村役寄ニて庄屋え参り 飛州行足軽代ニ猟師御改有 伝右衛門 源蔵 源兵衛 長右衛門四人今日落付候 外之者は今日断有 私義ハ村賄用等有之ニ付役人中より断被申候由役人中被申候 追て岩村より御沙汰有之筈(略)
同年一二月
一 十四日少雨ふり 紙すき申候 飛州より岩村家中御帰り被成候
一 十五日天気吉 紙すき 惣四郎ニ金壱分渡し 阿木より利七と申奉公人参り 壱両弐分弐朱ニて頼申候 新四郎阿木之女頼ニ参申候 昨日飛州より三好源太夫様 岩松藤市様 市川甚之丞様御帰り 足軽弐百人せうじひ(意不明) 鉄炮(砲)廿五挺 御弓拾丁 御馬五疋 長物弐拾竿 大筒三丁 人足六拾人 飛州ニて岩村勢百姓ヲ取候者七拾人 苗木三拾人余 百人計しばり岩村足軽弐拾人高山ニ残置 御帰り被成候由
 
 安永二年一一月一四日、二二日、同年一二月一四日、一五日の藤四郎日誌を記した。岩村領内の村役人中随一の教養人の藤四郎が、その目と耳でとらえた岩村領の飛驒出兵の様子である。この日誌から、足軽、郷夫の二つをとりあげると、
 ① 足軽について、はじめの六〇人の足軽が、帰国の一二月一五日では足軽二〇〇人となり、人数の差があるが、「郷夫ハ不知」の郷夫数が入る可能性が強い。一一月二二日に飯沼村では村役人協議して、伝右衛門、源蔵など四名の猟師を足軽代として決めて、城の召集に応ずることにしているように、本田高(古高)村には、朝鮮使節饗応の時と同じように、仮足軽を割当て徴用しているのではないかと考えられる。
 ② 郷夫について、「其他岩村近在より参り候郷夫は不知」とあるから、各村一〇〇石につき郷夫何名と割当てて徴発したことが分かる。

Ⅱ-57 岩村領阿木村枝村広岡新田 役銀納入(明和・安永・天明期)

(3) 寛永期の国役負担
 寛永期(一六二四~四三)は江戸初期の山林濫材のためか、水害多発期で寛永二~一九年の間に合計九回の国役普請が命ぜられている。その規模、材料、人足、扶持、経費などは県史にくわしい。その中の寛永六年(一六二九)一〇月付のものに松平和泉守(岩村領)が仰付られ、同年九月一〇日に出来あがった報告がある。この場合の割賦は一〇〇石に付一人役日数五八日六分八厘となっている。
(4) 文政五年岩村領国役負担の場合
 文政二年(一八一九)八月は美濃、伊勢一帯の大地震、文政三年(一八二〇)は大河川よりやや山間部に入った中小河川が出水し、特に板取川の出水破堤などがおこっている年である。これらの災害の後、文政五年(一八二二)に岩村松平氏は国役負担が命令され、領内に次のような触状が廻された。
 
     覚
 掛高弐万四千弐百三拾六石九斗五升六合弐勺九才
        但高百石ニ付
          人足拾三人七厘三毛壱
  外高五百石
 一 金五拾弐両三分永五拾八文三分
        濃州白金村外弐ヶ村
         辰国役普請高掛
 掛高弐万四千七百三拾六石九斗五升九合弐勺九才
        但高百万石ニ付
         人足弐人三厘八毛
 一 金八両壱分永百拾六文七分
        濃州芦藪村
         右同断
 合金六拾壱両永百七拾五文
 外永五拾壱文
右者去ル(文政三)辰年濃州国役普請人足賃金御領分高掛之分割賦書面之通御座候 以上
 (文政五年)午     松下内匠(幕府代官)手附
  五月廿五日   今川 為八郎 印
        同人手代
          近野延左衛門 印
 
    覚
高弐万四千七百三拾六石九斗五升九合二勺九才
      但百石ニ付
       人足八人三厘三毛
一 金三拾三両永百拾六文七分
       濃州今須村
        去巳国役普請全高掛
 此人足千九百八拾七人
  外永弐拾壱文六分
右者去(文政四年)巳年濃州国役普請人足賃金御領分高掛三分割賦書面之通御座候 以上
 (文政五年)午
  五月廿五日
       松下内匠手附
          今川 為八郎 印
       同手代
          近野延左衛門 印
 廻状を以申触候
去ル辰巳両年分濃州国役御普請高掛リ割金御領分江相掛リ候分如左
一、金九拾四両壱分
        永百弐拾文三分
右之通岩村西美濃御領分村〻ゟ取立 来月十日迠ニ笠松御役所江可相納候
松下(笠松(美濃郡代))内匠様御手代方ゟ今日別紙之通申来候則郷々相廻し候 尤御時節柄御金御差支ニ候得共取立之日間無之村□□儀可致者ニ付右割賦金先暫内御取替以立□御役所江上納之仰付条割賦金子取立之義御代官ゟ申触次第上納可致候 勿論人足御扶持米代と直ニ御渡候ニ而申来候 此廻状早々相廻し留リ村より三之○所江可相返候 以上
 午
  五月廿九日
        郡奉行所                   (青野鷹見家文書)
 
(5) 朝鮮使節来朝の負担 -岩村領上郷村むらの例-
 家康は慶長一〇年(一六〇五)に朝鮮との修好成立をはかっているが、それ以後、将軍の就任を慶賀する目的で、朝鮮王が送った祝賀使で、近世を通して、前後一二回に及んだという。総勢四百余名という使節の規模であり、その接待費は百万両にものぼる巨額を要し、農民は道路、橋の整備、渡海、渡河の準備に徴発されたり、領主が使節饗応役になればその負担も背負され、臨時の負担としては往復で七~八か月に及ぶものだけに、大きいものの一つである。
 正徳元年(一七一一)手金野吉田書上帳によると
 
  正徳元辛夘十月四日ニ唐人(朝鮮)名古屋泊り依之当村ゟ船橋え縄被仰付すのまた(墨俣)遣候 先年ハ馬も仰付候得共今度ハ御免致遊候
 
 とあって、朝鮮使節来朝に際して、木曽川渡河船橋つくりの縄御用を命ぜられている。先年は馬も徴発されたが、今度はないというのは新井白石の使節待遇の簡素化に関係があるのであろうか。とにかく、この正徳以前は馬の徴発があったことが分かる。
 この正徳の次は享保の使節があり、ついで寛延元年(延享五年一七四八)に朝鮮使節が来朝している。この来朝を岩村領支配者側の動きと岩村領上郷村むらへの負担を例としてまとめると次のようである。
 ① 朝鮮使節饗応役と負担
 延享五年(寛延元年一七四八)は七月一八日に寛延元年に改元された。岩村城主乗薀(のりもり)は延享三年に家督をついでいるから、それから二年後のことである。この年乗薀は朝鮮使節を近江八幡にて饗応する役目を命ぜられた。朝鮮使節は近江の野州から鳥居本までは中山道に平行するが、「朝鮮人街道」と通称される琵琶湖よりの街道を通行するので、その間にある近江八幡にて使節を接待する役目である。
 この準備もあって、同年二月二一日に、乗薀は初回の岩村城入城をし、四月二〇日行列を組み、近江へ出発し、同月二四日に、近江八幡に到着、五月五日朝鮮使節を接待し、同月一一日岩村へ帰城し、再び六月二六日に近江八幡にでて饗応役を勤めている。この時の乗薀の行列は恵那郡史にくわしいから、ここでは取上げないが、この行列に士が百十名、外に雇徒士及び足軽百拾一名があって、これは領内農民に対する労役に関係がある。
 ○仮御徒士と仮御足軽について
 この近江八幡接待の大名行列を組むにあたって
 
  一 仮御徒士 仮御足軽置候者致吟味名前書付差上ケ候様ニと被仰付 仮御徒士 仮御足軽村方ゟ出申候 青野村、両伝寺村、福岡新田、広岡新田 大野村ゟハ出不申候 其外も新田村ニハ出不申候よし 本田村ニテも猿子村、小田子村ゟハ置候者無之由ニて出不申候よし(青野鷹見家文書)
 
 とあるように、青野、広岡などの新田村を除いて、大部分の本田村から行列要員として、仮徒士、仮足軽を出している。阿木、飯沼では何名、どんな農民が出たか分からないが、次の資料によれば、服装など自前で行列にくわわっている。
 
  一 村々より出候仮御徒士仮御足軽今十日頃(同年正月)江戸より上野甚五郎様御越被成候ハバ 急ニ可申遣候間其心得ニて罷有申遣候ハバ早速参上甚五郎様被仰付を可承申候 尤御徒士ニ出候者ハ大小指羽織着袴心懸持参可申候并ニ御足軽様ニ出し者ハ大小指羽織着可罷出候義被仰付候(青野鷹見家文書)
 
 と同年正月五日に御用廻状をまわして、仮徒士、仮足軽は、その係家臣上野甚五郎が江戸から岩村へ到着しだい、早速参上して、どのようにすべきか指示を受けるように申渡し、服装のことにもふれている。
 晴れがましい饗応役に、百姓を臨時に徒士として組入れて行列をくんでいったことに、興味をもつものである。
 ② 岩村-大湫宿四度通行の負担
 近江八幡饗応役のため、岩村城主乗薀は二往復で四度の大名行列を組んでいる。その場合、岩村-大湫宿間の人馬及びその賃銭は全額領内各村むらへ課せられた。
 
  -略-此度 御饗応人馬 格別之御用ニ御座候故 御領分中新田出高村迠茂不残御免定納辻米高ニ割合当村出分右之通
 -略-(青野鷹見家文書)
 
 となっていて、岩村-大湫宿間の四度にわたる人馬賃銭は諸役米負担のある本田村(阿木・飯沼など)だけでなく、新田村(青野、両伝寺、広岡新田、福岡新田などの枝郷)にも課せられ、その中で青野村は賃銭として、一貫百四拾四文と米二斗を差出している。これを高割で考えてみると、阿木本村では約六拾三貫メを差出していると推察されるし、領全体では七百貫(約百十七両)近い負担だと考えられる。
 なお、この人馬御用については、延享五年(寛延元年)一月五日の御用廻状に次のように記されている。
 
 一 殿様江州江御出張之節岩村より中山道大湫宿迠御用之人馬村々申合御都合能様ニ可仕義
 
 ③ 小熊川船橋縄御用
 前記①、②は寛延元年に限っての岩村領内へのみの負担であるが、これは幕府が朝鮮使節来朝にあたり、畿内より武蔵国まで道中の国役負担として課したものの一部にあたり、美濃国内各領とも課せられた。下命は幕府代官を通して行われるのが普通で、美濃国の場合は笠松代官より、国内各領に指令された。岩村領に対しては、次のようである。
 
     覚
 高弐万拾三石四斗弐升三合
 一 縄六拾六束
  但し壱把[壱丈尋五拾繙]太さ三分廻り
  但し右例より也 寸法如此
右は来(寛延元)辰年朝鮮人来朝ニ付小熊川舟橋御用之縄如右例割賦書面之通ニ候 来辰正月廿日より同廿八日迠之内小熊川舟橋場江御届竹中左京殿大嶋雲八郎殿大嶋雲四郎殿家来江御渡被可候 先年も右縄請負ニ御申付候方も有之縄悪敷請取之節致迷惑候由ニ候間被入御念縄壱把五拾繙太サ壱寸三分廻リ少茂無相違様ニ可被成候  以上
                    青木次郎九郎 印
 (延享四年)夘十一月
 松平能登守殿                        (青野鷹見家文書)
     役人中
 
 高をあげて、岩村領へ縄六拾六束を寛延元年正月二〇日~二八日までに、小熊川現場へとどけるよう、笠松代官が岩村城へ指示したことを示している文書である。これを受けて岩村領は、その地方支配機構によって、領内へ更に下命するが、そのうち阿木、飯沼を含む近村分は次のようである。
 
 一 納縄六拾六束
   但壱把[壱丈尋五拾繙]何連茂金指
    大サ壱寸三分
   此割合
 一 縄弐束七把 岩村
 一 縄四束三把 飯羽間村
 一 縄五束弐把 阿木村
 一 縄四束壱把 東野村
 一 縄  九把 永田村
 一 縄三束弐把 藤村
 一 縄壱束六把 野井村
 一 縄四束弐把 馬場山田村
 一 縄五束三把 富田村
 一 縄壱束五把 飯沼村
 一 縄壱束八把 中野村
 一 縄  五把 久須見村
 一 縄壱束   竹折村
 メ出縄三拾九束三把                     (青野鷹見家文書)
 
 この村差出の割合を記し、色よい藁をよくたたいて寸法通りに入念にこしらえて正月一八日より一九日までに神箆(こうの)村[瑞浪市]の陣屋まで届けよと「急度申触候」を前記村むらへ、一二月に触状を廻している。
 負担はこれだけではない。岩村領内から、神箆村へ集まった小熊川船橋御用縄を荷作りする縄、こもについて
 
     覚
  来年朝鮮人来朝ニ付小熊川舟橋御用縄神箆村ニ而荷作リ候入用縄こも割合左之通納縄上納節一同ニ持参可申候相違無之様ニ可仕候  以上
 
と触を出している。村むらの負担はⅡ-58表のようである。
 この小熊川舟橋御用の触は、Ⅱ-58表の村順で廻された。その中で「阿木村枝郷共」というのであるから、枝郷青野村へも触は来た。このことについて、青野村は諸役は免除で上納したことがない新田村だから、のぞいてほしいと願い出ている。

Ⅱ-58 朝鮮人来朝荷作り用 上納の菰(こも)・縄