正家 三束六把
千旦林 二〃三〃
手金野 一〃九〃
茄子川 五〃一〃
駒場 三〃二〃
が割当られた。茄子川村分のうち、木曽方割合は一束六把三尋(ひろ)となり、これを次のように個人割付けをしている。
源蔵一〇三尋、与八分ノ内太左衛門一〇尋、源七分二六尋、次左衛門分三八尋、庄兵衛分三一尋、長右衛門四六尋、市兵衛三四尋、庄三郎分八四尋、伝右衛門四八尋、四郎右衛門分一七尋、喜太分三七尋、与蔵三四尋、長五郎四二尋、新五郎三六尋、金六六〇尋、清蔵二〇尋、仁左衛門分三七尋、善七分二五尋、紋兵衛三〇尋、長二郎四五尋、合計 八〇三尋 (但シ一丈尋、五〇たくり、一〇把=一束)
次に、こうして作られた縄を、「墨俣へ付送り」しなければならない。その費用は村持ち(百姓負担)である。茄子川村について、この負担の様子は、次のようである。
四二四文 兼山、舟水入濡縄干場、荷作リ人足代 雑用
二六三文 水上つみ入れ、墨俣庄屋渡シ
一五九〇文 本馬三疋、茄子川より兼山迠
二一二文 縄六把分駄賃
一一一五文 舟賃 兼山より墨保まで
六八四文 荷物道中 雨覆(おおい)琉玖(りゅうきゅう)代
二〇二八文 墨俣にて宿代、袖の下、その他
一六〇〇文 荷物宰領、組頭太左衛門渡シ道中八日分
四〇〇文 琉玖六枚墨俣候にて売払(収入)
一五一文 金二面借用利息
以上から
○兼山までは馬、兼山-墨俣は舟にて、道中八日(帰村まで)を要したこと。
○縄がぬれないよう琉玖(りゅうきゅう)六枚で覆っていたが、兼山にて舟に水が入って、縄がぬれてしまい、こまったこと。
これについては、次の日記がある。
正月十四日晩みたけ泊り、翌十五(日)舟に積(み)二丁程も下り申と□ 縄斗積候舟 川中(の)岩ニ当り 舟損シ水入候ニ付 川はたへ付ケ荷物切ほとき 人足を頼(み)干揚(げ) 翌十六日晩方出舟 少シ下リ 川合と申所ニ泊り 翌十七日起迠着舟 起ゟ舟、人馬頼(み) 墨俣へ付送り十八日晩方ニ宿へ着き 宿相頼(み)渡(し)度候間、引合候所 濡ニ而摸通悪敷 翌十九日一日懸り段々手入致(し)渡(し)申ニ付 金子も存知之外餘慶入候様ニ相見申候、重而可有事ニ候ハバ 五ヶ村(前記の村々)申合前広ニ墨俣へ積リ金子ニ而渡分能様ニ相見へ候段 無事成縄ニ而も手入致候ハバ□□ 事済不申躰ニ候間 ましてや此度之義 濡縄ニ而 支配人中之散々之難義しよしニ候事 (茄子川・篠原家文書)
とあって、舟に入水で縄がぬれてしまい納入に苦労したし、入費もかさんだ様子がわかる。
○墨俣御用縄納入に要した費用は約七貫六〇〇文で、これらは石高割にて、割付けられている。茄子川村の知行所別の割付けは、次のようである。
四貫四〇三文 御蔵入方
二貫四二〇文 木曽方
八六二文 久々利方
(6) 琉球人江戸出府の負担
薩摩の沖縄侵入をへて、日本の近世封建体制に組みこまれた沖縄は、幕府には将軍即位のさいには慶賀使を送った。この江戸出府は寛永一一年(一六三四)からはじまった。沖縄を支配した薩摩は自身の権威を幕府や大名に印象づけるために、この行列をできるだけ中国風俗をさせるようにつとめたといわれる。江戸上りの一行は総勢一〇〇名~二〇〇名で前後には薩摩の警固の列がついた。慶賀使派遣費は沖縄の農民の負担を大きくしたし、さらにこの使節が通行する諸国に国役負担をおわせたのである。その一例として、宝暦初年頃の岩村領へ下命された負担をとりあげてみる。
宝暦三年(一七五三)一二月二六日、幕府の信楽陣屋より飛脚にて、同二年冬江戸出府して、同三年春美濃路を通行して帰国した使節一行の往来人馬賃銭上納を命じてきた。その内容は次の通り
覚
一 高弐万四千七百三拾六石九斗五升九合弐勺九才
松平能登守殿美濃御領分
此金五拾三両壱分ト永弐百八文五分四厘八毛
但高百石ニ付永弐百拾六文壱分八毛宛
右は琉球人去申冬(宝暦三年)参向当酉(宝暦四年)之春帰国美濃路往来人馬賃金於江戸表御吟味之上近江美濃両国高割之積立百石ニ付永弐百拾六文壱分八毛宛取立之伊那半左衛門方江可相渡旨御勘定所ゟ 申来候ニ付右掛リ金書面之通御取立被成来戌正月十六日より同廿日迠信楽役所江可被遣候 其節請取手形と此目録引替可申候 以上
(宝暦三年)酉十二月 (幕府信楽陣屋)多羅尾四郎右衛門 印
この信楽陣屋より飛脚にて届けられた書面をうけて、岩村領では各村むらへ「以廻状急度申触候」をまわしている。上郷諸村の中で、阿木村枝郷青野村へは、この廻状が同四年正月一四日に到着し、これを写しとり、印をして、東野村へ廻している。その主な内容は次のようである。
琉球人参向帰国之節美濃路往来人馬賃金入用高割江州信楽御役所より申来候ニ付岩村御領分西美濃御領分割合覚
として、岩村本領分と西美濃にある岩村領分にわけて、高割の人馬賃金を記しているが、岩村本領分は二万一三石四斗二升三合で金四拾三両一分と永六分八毛となっており、その村割はⅡ-59表のように申し付け、
右割合之通来ル廿七日(同四年正月)我等方へ支配切ニ持参上納可致候 以上
戌 正月 吉田紋次郎 印
小泉 武助 印
金井源五郎 印
彦田与八郎 印
右村々庄屋中
Ⅱ-59 宝暦2~3年琉球人参向美濃路人馬賃銭割合(岩村領の場合)
幕府からは正月二〇日までに上納せよといってきているのを、正月二七日に集めていては間に合わないのであるが、それについては「村々年始之節候得ハ急ニハ取集難差出可有之付而先金子御取替御上納被下候之旨……」とあるから、役所として一時取替をしているようだ。とにかく廻状がきてから、一〇日以内程に提出しなければならない負担であった。
この宝暦の参向時でなく、次回と考えられるが、広岡新田庄屋から阿木村本村庄屋平右衛門に対し、広岡分として金一分二朱と銭四一五文を納めている(Ⅱ-57表)。
(7) 広岡新田の負担
元禄一六年(一七〇三)村差出帳には「当村ハ新田故口米并諸役米先御代ゟ上納不仕候御事」とあって、諸役負担はなかったが、Ⅱ-57表にみるように明和~天明頃には高役銀が毎年課せられている。Ⅱ-57表にない安永五年(一七七六)の覚をあげると、
覚
甲申改壬申改永引残
一、高百五拾四石三斗八升八合五勺八才 [古新田起新田下新田]
石五分掛り
此役銀七拾七匁壱分九厘
此金壱両分銀弐匁壱分九厘
此京百九拾文
両替五メ壱百文
右之通請取申候 以上
(安永五年)申 月番
十月 吉田紋次郎
広岡新田庄屋
惣十郎殿
とあって「石に五分掛り」の高役銀を上納していたことを知ることができる。その他にⅡ-57表の安永三年が示すような臨時の国役的負担があった。そして、この場合の納入先は本村である阿木村の庄屋であった。枝村分も集めた阿木村庄屋が、それぞれ担当の村役人または商人に差し出していた。ただし受取は各村庄屋あてに出すようであった。
覚
一 銭四百五拾六文
右之通大坂人馬賃銭送口金慥ニ請取申候 以上
卯十二月十九日
竹折付庄屋
又右衛門 印
広岡新田庄屋中
これの年代は天明三年、文化四年のどちらかのもので、岩村-大湫間の人馬賃銭負担を広岡が出した受取である。当時の岩村城主は松平乗保であり、天明二年に大坂加番、文化三年には大坂城代を命ぜられて、特に後者の場合、役加増もあったが、この下命による支出増はそのまゝ領内百姓の臨時負担となって村に割賦されてきたことを示している。
(8) 郷足軽
国役として、ここにあげることは適切でないかも知れないが、幕末期になって、特に嘉永六年(一八五三)のペリー来朝以後、やかましくなった世の中に対応するのに、農民を兵士として活用することを、諸大名も考えはじめた。岩村領の場合では、領分中の猟師を活用することが、この嘉永六年冬よりはじまった。これを「郷足軽」と呼んだ。
岩村領内の足軽には、①家臣としての足軽、②村より常時召し出された足軽(第三章宗門改め)、③高山出兵、郡上出兵の時のように、村より臨時徴用された足軽の三種があった。郷足軽は③の一種とも考えられるが、在郷軍人的な形をもつものであり、明治の徴兵制へつながるものであろう。
郷足軽
嘉永六年(一八五三)丑年冬御領分中猟師ヲ郷組足軽ニ御召抱ニ相成 翌寅年正月廿八日被 仰出有之御書付
覚
一 調練ニ呼出候節ハ並足軽諸日割被下之候 但三里以上有之候村方之者ハ二日分 日返リニ相成候村方之者江ハ一日分被下候事
一 村方ニ罷在候内帯刀并表札出シ置候義 勝手次第ニすべく候
一 当分差支候者ヘハ刀御貸可成事
一 夜日ニ銘〻持参之事
一 詰中炮術致稽古候ハバ玉薬可被下置事
一 春秋農業□ヶ敷時分三人組合之者ニて助合可申事
一 猟師之内役人勤候者ハ役用有之時分兼方申合置次之番ニ当リ候者出役用済次第可□出事
一 役人勤候者当番ニ当リ相詰候節村用有之候時ハ御代官ゟ直〻呼寄役用為弁可申 其節ハ組ニ而急助拵置間之欠ケ不申様取計可申事
一 正月元日頭宅江年礼ニ出候ハ詰合之者一人酒代相勤 其旨窺正月中都合次第追〻可被出 若差支有之候節ハ流 可致事但上下着用之事
一 同十一日御年寄衆ヘ御目見江出候節ハ是又壱人差出 其者名前肩書郷組惣代被認可申事
右之通四丁場小頭□屋□□治罷出可致差引候以上 寅正月廿八日