Ⅱ-61 天保一三年 飯沼村(南郷分)の百姓年貢勘定
これによると、飯沼村高三六七石六斗八升のうち、南郷分本高一八九石四斗九升余である。その内容は以下のとおり、
一 高三百六拾七石六斗八升 飯沼村 内 | ――― | 飯沼村本郷(大野をのぞく)の村高(古高) |
高百八拾九石四斗九升七合三勺三才 南郷 内 高三石五斗七升五合五勺九才 前〻川成 | ――― | 飯沼村を南北二郷にわけて 南郷分の高 |
同二升八合 甲申御改永引 | ――― | 水害で田畑流出で 高より差引く分 |
同壱石五斗弐升 壬申御改永引 同六升 甲申御改永引 高壱石五斗三升弐合 前々砂入川欠当引 残高百八拾二石七斗八升壱合七勺七才 | ――― | 宝暦二年(一七五二)よりの永引で、飯沼村には、この年より永引が多い。 |
此米七拾八石五斗九升六合 四ツ三分 | ――― | 本田高に対する免相(年貢率)である。阿木村は文政一三年(一八三〇・天保元年)の資料で五ツ三分で飯沼村より高い。 |
同三石壱斗七合二勺九才 諸役米 同弐石三斗五升八合 口米 〆米八拾四石六升一合二勺九才 | ――― ――― | 諸役米一〇〇石に付一石六斗八升三合、口米一石に付三升(いずれも古高)が岩村領の村むらであるが、飯沼村では、諸役米については一〇〇石に二石二升余の割合で多くなっている。これは検地高より実際の村高がすくないからである。六石四升七合程おさめるうちの半分が南郷である。 |
一 高弐拾石三斗三升五合九勺五才 切起新田 内 高六斗八升 甲申年〻当引 同五升四合 壬申御改永引 残高拾九石六斗壱合六勺五才 此米三石九斗弐升 二ツ掛 | ||
一 高六石八斗五升八合壱勺 享保御改寅新田 此米壱石九升七合 壱ツ六分 | ||
一 高三斗 古新田 此米八升七合 二ツ九分 | ||
惣合米八拾九石壱斗六升五合弐勺九才 此俵弐百弐拾弐俵三斗六升五合二勺九才 右之通名主惣百姓立合高下無之様合割符 | ――― | 本田高、切起、寅新田、古新田を合計した年貢米であり、それを四斗入の米俵にした俵数をあげている。 |
十一月晦日限り急度皆済可致者也 寅十一月 | ――― | 一一月晦日までに納めよとしている。 |
この南郷分について、個人別が次にかかれているが、第一にあげられている弥兵衛分は以下のようである。
一 高弐拾三石七斗三升三合六勺四才 | ||
弥兵衛 | ①―― | ①飯沼村南郷最大の高持ちであり、江戸時代をほゞ通して飯沼村役人をつとめた家である。天保一三年では、庄屋であり(天保三年-弘化四年)弥兵衛一家五人の外に鎌吉、忠吉(佐七)、太蔵の三家族を「抱」としている。 |
内高壱斗八升四合 川欠引 残高弐拾三石五斗四升九合六勺四才 一 米拾石壱斗弐升六合 四ツ三分 一 同四斗三合 諸役米 一 同三斗四合 口米 一 高八斗六升六合六勺六才 切起新田 内高六斗八升 当引 残高壱斗八升六合六勺六才 一 米三升七合 二ツ掛 一 高壱斗壱升 寅新田 一 米壱升八合 壱ツ六分 〆米拾石八斗八升八合 | ②―― | | | | | | | | | | - | ②古高と諸役米、口米、それに切起新田、寅新田をあわせた年貢米の合計で一〇石八斗八升八合となっている。残高の合計二三石八斗四升六合に対して約四五・七%となる。 |
一 米七斗七升三合 付払 一 同壱斗六升壱合九勺 御扶持米 一 同九斗弐升九合 前取立 一 同四石九斗六升 役米 一 同三斗七升四合 残田掛 一 同八升 ならし | ③―― | | | | - | ③正税以外の年貢米として、付払に要する負担をはじめ、扶持米、役米などがある。この外に村持分に対するならし負担や、役人持分に対する負担などがある。 |
〆米拾八石壱斗六升五合九勺 可納米 | ④―― | ④「可納米」の合計は一八石一斗六升五合九勺となる。これを、弥兵衛のもつ残高合計の二三石八斗四升三勺に対する割合をみると、約七六・一%となる。これが実際上の負担割合である。 |
一 米五升七合 御用米斗 一 同壱斗五升八合 籾代米 一 同弐升弐合 同代米 一 同弐斗弐升七合 餅米斗 一 同五升 なら志取 一 四升三合 同断 取 一 同四斗 同断 取 一 同壱斗四升九合 同断 取 | ⑤―― | | | | | | - | ⑤から⑧までは、弥兵衛が実際に納入したり、村役人として立替え払いした分で年貢納入済と考えられる分、弥兵衛の小作が弥兵衛分として納入したものなど「納り」つまり納入分である。このうち⑤の御用米斗から「なら志取」までは、弥兵衛が実際に支払ったものであろう。餅米については飯沼村全体で八俵割当である。 |
一 同壱斗三升壱合 立合取 一 同壱石四斗三升九合 御附走り取 一 同八斗七合 惣郷入用被□ 一 同弐石九斗六升 当馬取 一 同四斗九合 七里取 一 同三石五斗 庄屋給 一 同壱石壱斗八合 年内取替直払取 一 米五斗七升壱合 直払取 一 同弐石八升五合 御中間増金上郷割合同断取 一 同弐石八斗三升九合 年内取替元利同断取 一 同四斗五升 前 同断取 一 同六斗三升弐合 残不足米元利同断取 一 同八斗六升五合 付払取 一 同四升壱合 郷蔵土蔵木代 一 同壱斗八升壱合 同断大工江渡り 一 同七斗五合 欠米元利 | ⑥―― | | | | | | | | | | | | | | - | ⑥立合取から郷蔵の木代、大工賃代米などの郷倉関係までは、弥兵衛が庄屋として勤務する上で、すでに立替支払った分で、これらは「納り」分と考えられている。これらの中で村役として馬を利用した分、岩村城の中間費用の増金による分担増などが大きい。これらの中で「七里」は、村の連絡費ともいうべきものであって、弥兵衛以外の多くの百姓も分担している。 |
一 同七升 郷蔵之□欠米 | ||
一 同四升 源吉斗 一 同壱石六斗 木ノ川清六斗 一 同七升 儀兵衛斗 一 同壱石六斗 木ノ川吉蔵斗 一 米七合 作左衛□ 一 同四斗 源六受 一 同三斗四升 太蔵受 一 同壱石六斗 野田銀蔵斗 | ⑦―― | | | | | | - | ⑦源吉はⅡ-61表の三番目にでてくる百姓であり、儀兵衛は同表八番目の百姓である。源吉は「可納分」五升六合という小百姓であるが、前年(丑)分が不足して、弥兵衛に助けてもらったので、この寅年に弥兵衛分として納めている。 儀兵衛は「可納分」七石八斗一升二合の百姓である。源吉同様で、弥兵衛分として納めている。 太蔵はⅡ-61表に示すように九名いる無高百姓の一人である。太蔵は天保七年(一八三六)弥兵衛の抱となっている。天保一三年では妻、子ども三人の家庭である。Ⅱ-61表でわかるように無高百姓でも「可納分」として「村ならし分」は受持って三合宛を割当てられている。七里役をつとめて三斗七升二合を納めたことになっているが、弥兵衛への借金、無尽金代などで、Ⅱ-61表のように五斗四升一合の不足となり、代金で金二分と銀九分七丁を差出している。 |
〆米弐拾五石五斗五升六合 納り 引残米七石三斗九升壱勺過 | ⑧―― | ⑧弥兵衛は七石三斗余を余分に納めていることになった。 |
内 | ||
一 米八斗 惣九郎江渡 一 同六升 善吉江 渡 一 同弐斗弐升三合 作右衛門無尽江渡 一 同八斗 太蔵江渡 一 同弐斗四升九合 キ八無尽江渡 一 同弐斗 清助無尽江渡 〆米弐石二斗三升弐合 所々江渡 | ⑨―― | | | | | - | ⑨この七石余の過分の中より、不足百姓六人のかわりに出してやったり、無尽渡しを合計二石二斗三升余だしている。 |
指引 一 米五石五升八合五勺 過 外ニ 一 米弐斗 寺割取 〆米五石弐斗五升八合五勺 過 内 米弐斗 佐七江渡 | ||
米五石五升八合五勺 過 此代金四両三分ト 銀四匁六分 | ⑩―― | - | ⑩過分は結局五石五升八合余となり、この代金として、金四両三ト銀四匁六分を受け取っている。この場合の両替相場は、次のように記入されている。 金一両=米壱石四升八合 金二分=米五斗二升四合 金壱分=米二斗六升二合 金弐朱=同一斗三升一合 銀百文=同一升六合一勺二才 -以下略- |
極月晦日相渡 皆済 |
つけくわえとして、
①今年分として納入すべき分をもととしながら、すでに支払いの分を、個人別に勘定して、Ⅱ-61表にあるように出不足を金納で皆済した。しかし、実際は宮地日記(市史中巻別編)に「七日(天明四年正月七日)御用米弐升えり立 与吉岩村江持参」、「廿日(同年一月廿日)岩村江米拵ニ人足七人遣し申候 米壱升余ぬき候テ〆直し 上抱(包)致拵申候……」とあるように御用米運送と撰出し、或は中津川までの付払いなどがあって、勘定すべて終了したわけではない。
②無高百姓の中には、米三合というように小量ではあるが、村の「ならし負担」をもっている者もいたし、村に課せられた「出馬」をつとめて、その分を地主の借金にあてることも、この勘定帳からわかる。
こうした中勘定について「宗門 中勘定苗木行夫役 御上様御荷物並ニ御役人様御通リ之節夫役之儀ハ 本百姓家株ならしニ相勤メ申候……」(中之方村諸格合之覚中野方村史・安江赳夫)とあるように、宗門改めと共にこの勘定は重要なものであった。