中川旧記(市史中巻別編)によると、年貢収納には「福島より加奉行ト唱 御足軽弐人 当所へ(中津川代官所)御下役壱人」で、廻村を次のようにしている。
初日~四日目 中津川村
五日目 落合
六日目 手金野
七日目 千旦林
八日目 中新井
九日目 茄子川
十日目 正家
十一日目 川上
十二日目 川上中勘定
十三日日
十四日目 御氷餅
十五日目
中津川村では、はじめの四日と氷餅の三日と都合七日間の収納について、当番役役人が廻り番ででている。
中津川郷倉壁書に
是迄四日之処
初納二日
同断三日之処
二納二日
但餅米共
右嘉永五子年被仰出候
通光(肥田九郎兵衛)記
とあるから、それ以後は変更となった。
・米俵には、中札付
表 中津川御蔵前四斗入 |
裏 何月何日納米主 誰 |
・氷餅俵には
御年貢米の内 一米何斗納 何月何日御蔵入 |
(餅米は壱粒撰で一割増で一升を一升一合立にする) |
となっていた。
この蔵納米について、文化以前というが間杢右衛門番頭藤九郎が蔵詰(中川旧記)をして、取扱ったことがあった。
中津川村の場合、この付払いについては、四里で、東は妻籠、西は竹折下り坂まで、その賃三〇〇文は村もち、それ以上は米金にして、足して払うことになっていた。(郷倉が別の川上は中津川本村と違っていた)
こうして、収納が終わると、
「中勘定、十二月十五日 役人不残 袴着用ニテ出頭」とあるように、中勘定がおこなわれ年貢皆済書がだされた。この年貢米請取は中津川宿本陣の市岡家分が宝暦一一年(一七六一)~寛政一二年(一八〇〇)にわたって残されている。そのうち、天明八年(一七八八)分は、次のようである。
申御年貢米請取事
権兵衛分
合米八石[印]弐斗五升弐合 市岡長右衛門
彦十分
合米弐石[印]七斗八升弐合 同 人
小兵衛分
合米弐石[印]九斗八合 同 人
右皆済 仍而如件 (代官)
天明八年十二月 原 彦八郎
これと同時、山村氏知行所全体として年貢皆納を尾州表に申達した。
宝暦六年(一七五六)の高寄帳(市史中巻別編)によると、市岡本陣家の個人高は、次のようである。
高五五石四斗九升七合 権兵衛分 長右衛門
高 四石六斗五升三合 彦平分 同 人
高 三石五斗九升二合 小兵衛分 同 人
このうち「権兵衛分長右衛門」分では
申御年貢米請取事 権兵衛分 長右衛門
合米弐拾九石五斗三升八合 定納
右皆済仍而如件
明和元年十二月
川口茂右衛門
とあって、高五五石余のうち、二九石余を納入していたが、安永六年(一七七七)より納入皆済が八石余と三分の一以下に減少している。この理由はよくわからないが、寛政五年(一七九三)には、本陣困窮につき宿役人連名で五〇両の拝借願いがでている。