①享保年中が高く、元文、寛保と低くなっている。
②江戸時代後半では、文化、文政年中を通して、約二六石で、年による大きな変動はない。
Ⅱ-62表の中で、宝暦八年(一七五八)分について、その免定をまとめると、次のとおりである。
岩宿分を含めないところの納むべき合米計二五石九九四に対して、実際の米納現場(庄屋の庭など)で納入を記録した「宝暦八年十月廿九日、寅年御蔵納庭帳」には、以下のように記録されている。
十月廿九日
一 米三石二斗壱升三合 岩宿 源七
同 日
一 米壱石六斗四升四合 左右衛門
同 日
一 米八斗壱升 甚右衛門斗 左右衛門
同 日
一 米弐石四斗六升五合 小源次
同 日
一 米八斗 長三郎斗 長右衛門
同 日
一 米四斗 同人斗 浅右衛門
同 日
一 米壱石八升 辻原 金八
同 日
一 米六斗弐升 長三郎斗 長蔵
同 日
一 米壱斗三升 同人斗 左右衛門
内五升九合弐勺 甚右衛門分入
同 日
一 米壱升九合 同人斗 長蔵
同 日
一 米壱斗弐升 同人斗 浅右衛門
同 日
一 米弐石七斗五升壱合 長兵衛
同 日
一 米三石三斗弐升弐合 正六
内
同 日
一 壱石六斗 庄六斗 小源次
内米壱升 庄六分入
同 日
一 壱石七斗弐升弐合 庄六
同 日
一 米三石四斗五升弐合 浅右衛門
内壱石(宝暦七年)丑ノ御年貢引
残而弐石四斗五升弐合
同 日
一 六斗四升 長蔵
〆弐拾壱石四斗六升六合
表五十三表弐斗五升六合
外四合弐
宝暦八年では、岩宿分をのぞいた「納むべき米量」二五石九九四に対して、実際に御蔵納は二一石余である。宝暦八年の辻原宗門帳によると、高持百姓八、無高百姓三で人数は男子二四人、女子二六人の計五〇人となっている。蔵納庭帳には、庄屋儀兵衛は三四歳の長男左右衛門になっている以外は、七人の高持百姓が全部でている。
この蔵納米は、同六年でみると、
(三割米) 一 米六俵 元捨利 中津川与助方 一 米六俵弐斗四升 〃 志水屋分 (小切手米) 一 拾六俵弐斗 新町錦屋徳左衛門 一 米六俵弐斗四升 新町 又蔵 一 拾六俵弐斗 大井藤八分 加納屋伝七分 |
とあるように、元捨利米(三割米)、「小切手米」などとして、同年一二月から翌年二月にかけて付払い運送がおこなわれている。
Ⅱ-62 中新井村(辻原を含む)久々利方高56石854のうち
納むべき米高のうつりかわり
「納むべき米量」と「蔵納米量」の差については、米納分と金納分の関係や、「元々差引」の定引のためである。
この関係について、弘化二~四(一八四五~四七)の蔵納帳(中新井村)から表にしたものが、Ⅱ-63表である(林家文書)。
弘化二~四年の三か年とも「納むべき米高」は約三〇石に対して、蔵納については弘化二年は約一〇石、同三年は約一四石、同四年は一六石となっている。「元々差引」の定引は三年間とも約六石、江戸へ送る廻米も三石と同じであるから、蔵納が増加すれば、金納分は減少となる(市史中巻別編五九一頁参照)。
金納については、同じ久々利方知行所である駒場村の役所へ届けるか、直接に久々利役所までもっていったようである。(金納分取集めは落合の鈴木利左衛門があたり、久々利表へ届けることが多かった(市史中巻別編)。
中新井村の久々利知行所方分の「御物成払方目録」は文政~天保期(一八一八~一八四三)にわたって残されている。いずれも、その年の免定発行前の一〇月に前年の払方目録が仕上られている(林家文書)。
天保九年(一八三八)戌の払方目録(天保八年分)によると、
御納分 三〇石七斗五升 ①
内
五石 御借米元 ②
四斗 御借米 岩宿分 ③
二斗一升 庄屋給 ④
二斗 儀兵衛へ (庄屋手当) ⑤
九升六合 ばん上作御引 ⑥
五升 中新井村井道代 ⑦
一石八斗 百姓只助江 ⑧
六斗一升一合 酉御物成払 (天保八年払) ⑨
一〇石三斗一升四合 中津川大坂屋 吉兵衛払米 ⑩
七石三斗五合七勺七才金納 ⑪
一斗五升七合一勺 御三所立合川除 ⑫
四斗一升四合 御両所立合川除 人足五一人三分 ⑬
七合五才 同大工扶持米 ⑭
二斗九升五合九勺 川除入用木材買上代 大工作料 ⑮
二升六合六勺 右入用竹代一六本此銀二匁八分二厘 ⑯
〆二六石三斗六升二合九勺 ⑰
元々差引四石三斗八升七合四勺一才
此金 五両二朱ト銀一匁二分八厘 此銭一四八文 ⑱
④⑤⑦⑫⑬⑭⑮⑯の計で一石三八一一は年貢出納すべき分のうちから、庄屋給、手当、川除費などの村入用分として差引勘定をした分
⑥⑱は「晩作引」「元々差引」というように減ぜられた分で四石四八三四
②③⑧⑨は拝借米やお救いになる分で、七石八一一になる。
⑩⑪は蔵納と金納分で一七石六斗一升九合七勺七才となり、これが正味の年貢上納分となる。村高に対する割合でいえば、約三一%となる。
Ⅱ-63 弘化二~四年 中新井村年貢上納一覧表(同村蔵納帳より 林家文書)
次に蔵納分の付払いは天保九年分として「中津川大坂屋 吉兵衛払米」となっているが、この付払いについて、その様子をあげる。
天保九年戌 中新井村御蔵納覚帳 十月十九日(林家文書)
覚
一 八斗三升 和七
壱駄
一 壱石六斗 伊左太郎
壱駄
一 八斗四升 長之助
一 弐石六斗三升 儀兵衛(庄屋家)
三駄
一 八斗三升 義右衛門
壱駄
一 八斗 作助
壱駄
一 壱石六斗弐升 彦右衛門
一 八斗 又十
一 三石弐斗五升 只助
五駄
一 八斗 喜助
壱駄
〆拾四石 俵にして 三拾五俵
内
四月
弐拾五俵三斗壱升四合(一〇石三斗壱升四合)
中津川大坂屋吉兵衛 附払
弐十六俵払として
八升六合代 買取
九俵は蔵ニ残米
大坂屋へ中新井附払の内
義右衛門斗六升切
二五俵三斗一升四合(一〇石三一四)を大坂屋吉兵衛に附払する時に、二六俵として八升六合を吉兵衛の買収としてとどけていること、蔵には九俵を残したこと、附払のうち義右衛門がだした一俵が六升切れであったことなど、附払いの様子がわかる(米拵の注意については中巻別編五九〇頁参照)。