山村氏の財政

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江戸時代後半の山村氏の財政について、手金野「諸事旧記より見出留帳」(手金野・岡本家文書)によると、安永九年(一七八〇)冬、山村氏家老千村喜右衛門が中津川へ出張してき、中津川代官所に、中津川、手金野などの庄屋、組頭を集めて「旦那様勝手不如意」につき、山林伐採を行うと、言い渡している。こうして天明三年春(一七八三)に、子野、中村、手金野三か所で宮木(神社の森の木)を伐り採り、川上でも森のぬき切りをしている。年貢のみでは、山村氏が財政が維持できないことを示している。この天明年中には一万余両の借金を背負っていたという(木曽福島町史)。そこで、石作貞一郎を勘定方に抜てきし、財政再建にとりかかったといわれている。
 この動きは、山村知行所である中津川宿村にもあらわれている。
 
 其方義 御勝手御用出精相勤候ニ付
 代々御目見之家筋被 仰付候
  天明六年十月   上(上田) 武助
           石(石作) 貞一郎
            間 杢右衛門殿
            (市岡家萬記弘化三年)
 
 とあって、中津川宿内有力商人杢右衛門が山村氏財政再建に協力し、献金している。杢右衛門以外では、肥田九郎兵衛、菅井嘉兵衛(二〇〇両調達、ついで四〇〇両調達)、間半兵衛、勘四郎などが、天明六年(一七八六)に献金している(市岡家萬記)。
 こうして、山村氏の財政は一時好転したが、文政年中には八千両の「無尽講」を発会させている。中津川宿村の加入者をあげると、間杢右衛門、肥田九郎兵衛、間半兵衛、大屋与一右衛門、高木由兵衛などがでている(市岡家萬記)。
 さらに、天保年中に入ると、同八年(一八三七)には、各村を廻村して御為金(献金)をつのっている。中津川宿では、市岡長右衛門が、山村氏家臣平野文助について献金勧誘の廻村しているのをはじめ、間杢右衛門、間半兵衛、大屋与一右衛門、高木由兵衛などが献金(金額不明)している。
 ついで、天保一三年(一八四二)にも、多く献金をしている。天保八年の献金者以外では、扇屋半蔵、勝野吉兵衛、池田屋伊兵衛、十八屋五兵衛、大津屋平八、成木治兵衛(中村在住)などの名前があげられている。
 こうした「御勝手御用出精」について、山村氏は「苗字・帯刀」、「御目見え家筋」の褒賞を与えているが、財政の行き詰まりは進むばかりで、嘉永四年(一八五一)には、家臣の俸禄の減俸、諸費四割削減となり、明治維新時には、諸道具の「せり売」をしなければならない状態までおいこまれていった。このことは、農民から徴収する年貢だけでは財政維持ができなくなったことを示している。