元治元年子納御年貢米代金

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幕末期の元治元年(一八六四)の「元治元年子納御年貢米代金 御勘定所へ差出」(徳川林政史研究所)によると、
 
    覚
 中津川辺村〻納高
 一 米千六百九拾五石九斗四升四合六勺壱才
   内
 七百拾三石六斗五合七勺八才 渡米見込
 拾壱石弐斗七升六合八勺五才 蔵取見込
 九百七拾壱石六升弐合九勺八才御払米
 代金弐千百廿両弐朱  両米四斗五升八合
      銀六匁
 久々里辺村〻納高
 一 米千六百六拾石九斗四升六合三才
   内
 三百八拾四石五斗七升九合五勺四才 渡米見込
 弐石七斗四升五合六勺弐才     蔵取見込
 千弐百七拾三石六斗五升      御払米
 代金弐千九百四拾壱両壱分弐朱   両米四斗三升
      銀七分七厘
 両知行所代金
 合五千五拾壱両弐分
     六匁七分七厘
   内
 六百四両壱分 納方御払残米弐百六拾弐石四斗六升七合四勺四才  九匁五分壱厘
 引残
 四千四百五拾七両三朱
      壱匁壱厘
 
 として年貢米代金をあげている。これだけでは、山村家の財政は成立せず、同様に「元治元年子納年貢米代金勘定所へ差出」によると、Ⅱ-64表のように、借入金や貸付(百姓が拝借した金を返納する分)の返納金による収入をあげている。
 同表によると、その収入は三六〇五両二分二朱となり、前の年貢米代金四四五七両三朱と銀一匁一分との合計は八〇六二両三分と銀四匁五分となる。
 このうちから、支払いをしていくわけであるが、これについても「元治元年年貢米代金勘定所へ差出」によって、その大略をみると、
 ① 各無尽(カッコ内は掛金)
  岩村二千両講 大久手五百両講 岩井助七千両(一六〇両)講、井口五左衛門(四五両)三百両講、塚田(落合)弥左衛門(一〇〇両)百五拾両講(三〇両)、手金野百五両講、菅井嘉兵衛(三五両)三千両講など
 ② 尾州納戸金年賦(七五両)
 ③ 主な借入金と利金及び元治元年の返金分
  ・酒井吉右衛門二〇〇両の利二四両-安政四年借入
  ・肥田九郎兵衛二二五両-安政五年借入(返金二七両)
  ・菅井嘉兵衛 三〇七両-安政三年(返金五〇両)
        一一〇〇両-安政六年(返金一四三両)
         三〇四両-文久二年(返金六両二分)
                      一五匁
        一二〇〇両-文久三年
  ・間 半兵衛 五九〇両-安政四年[返金分九三両一匁五分]
  ・大屋又八郎 五〇〇両-万延元年[四〇〇両返金して残り一〇〇両をはらう四両三分二朱]
 などがあげられている。
 ④ 家臣の特別御用・または取替として渡分
  原九郎左衛門[一五両、手金野一〇五両講 掛金四両一分、五匁]
  遠藤五平(一二両)
  佐久間小十郎(一〇〇両利一五両)
  下山武平(八両取替差出)
 ⑤ 普請御用借入元利
  ・一二六両 利七両五分 三匁六分
   手金野井水御普請御入用六月 御借入元利
  ・二両ト二匁四分 水欠御拝借之内 中津川拝借之分の内
  ・七二両 水欠御拝借年賦
   (元治元年五月二八日 大雨降り 近辺洪水となる。川上川筋、阿木川筋、岩村川損所多し。川上川大出水し、中津川被害多し、手金野本井水筋欠所できる。-市史中巻別編年表-)
 ⑥ 木曽の宿助成分
  贄川宿(四七両)、須原宿(三〇両)
 などにわけることができる。これらを合計すると、七四口、六四〇三両二朱と銀七匁四分七厘二毛となる。
 いずれにしても、幕末期には大名など支配側の財政は、年貢だけでは維持できず、苦しいものであった。

Ⅱ-64 元治元年 山村家借入金の状況について