一六世紀、ヨーロッパ人が日本へ伝えたもので、その後の日本の歴史に大きな影響を与えたものが二つある。一つは鉄砲の伝来であり、もう一つはキリスト教の伝来である。
天文一八年(一五四九)、「フランシスコ=ザビエルは鹿児島へ来て、はじめて日本にキリスト教(旧教・イエズス会、ヤソ会・キリシタン)を伝えた。まず九州に広まり、大名の信者も得た。ついで畿内まで進出し、織田信長の保護を得るまでに至った。信長は一向一揆、比叡山などの勢力が、彼の国内統一をはばむ力であったこともあって、対抗上キリスト教を保護した。これ以後、信長が本能寺で明智光秀の叛逆にあって急死する天正一〇年(一五八二)まではキリシタン伝道の最盛期である。信者数でいえば、元亀元年(一五七〇)三万人、天正七年(一五七九)一〇万人、同九年(一五八一)一五万人」(世界大百科平凡社版)となっており、天正一〇年(一五八二)では、美濃で家老を含めて二〇〇人の受洗者があったという(県史・史料編近世下)。
信長をついだ秀吉は、はじめキリスト教保護の立場をとったが、天正一五年(一五八七)島津氏征伐の帰途「日本は神国たる処、きりしたん…………邪法を授け候儀、はなはだもってしかるべからず。」として、士分以上キリスト教禁止を発令したが、イエズス会(はじめて日本へ伝来したキリスト教の会派)の信者は増加していった。慶長五年(一六〇〇)には、イエズス会士のみで一〇九人、信者は七五万人といわれ、美濃では関ヶ原戦前の岐阜城主、織田秀信は伴天連(ばてれん)オルガチノにより洗礼を受けたし、関ヶ原戦後では、美濃代官をつとめ、家康の信任厚かった大久保長安はキリスト教に好意をもっていた。
家康は、慶長一七年(一六一二)幕府領に禁教令を出し、翌一八年には全国にひろめ、キリシタン宣教師の追放にあたった。そして改宗者に限り証拠のため寺院僧侶の判形をとった。これが寺請制度のはじまりである。
第二代将軍秀忠は元和二年(一六一六)八月に全国に禁教令を出し、家康の政策をついだ。第三代将軍家光の時代に入ると、禁教はきびしさを増し、寛永一二年(一六三五)には鎖国令を出し、信者の根絶をねらっての弾圧が加えられていった。
島原の乱(一六三七)後、寛永一五年(一六三八)にはキリシタン禁止高札、寛永一六年(一六三九)にはオランダ船以外の渡航を禁止し、鎖国を徹底すると共にキリシタン厳禁をさらに進めた。寛永一七年(一六四〇)に幕府は宗門改役をおき、キリシタン取締の体制を制度として確立させ、寛文四年(一六六四)には、宗門改役を諸大名にも設置させた。この時にはじまって、明治維新で禁制を解くまで、この政策は幕藩体制の基本政策としてつづけられた。