美濃国内、木曽などを中心にした年表をつくってみた。中津川には直接関係はないものもあるが、キリシタンの取締りは次のようにあげることができる。
○元和五年(一六一九)一〇月、京都において信者五二人が処刑された。その中に美濃人五名(県史通史編近世下)。
○寛永元年(一六二四)近江・美濃の信者が厳罰に処せられた(同書)。
○同三年(一六二六)「ゆふげん」というキリシタン坊主が大垣地方に出入りしたが、大垣城主によって追放された(同書)。
○寛永一二年(一六三五)木曽福島「福島興禅寺檀那筋之覺」を代官所に提出する(木曽福島町史)。
○寛永一八年(一六四一)キリシタン禁制も含む木曽代官の触が出る(同書)。
○寛永一九年(一六四二)尾張領「領民心得」条々、の第二条にキリシタン禁制の項をあげている。
○正保元年(一六四四)幕命により信者の検挙がはじまり、方県郡内の村の信者が江戸へ送られたり、武儀郡洞戸村の信者がつかまえられた(県史通史近世下)。
○「尾濃葉栗見聞集」によると"この頃の美濃国内のキリシタン在住村"の中に恵那郡内一一か村と記されている(県史通史編近世下)。
○慶安元年(一六四八)飯妻村(飯沼村)宗旨改帳あり(市史中巻別編)。
○承応三年(一六五四)中津川宿にキリシタン高札建つ(市岡本陣古来入用書付留帳 以下本陣留帳)。
○寛文元年(一六六一)「可児郡帷子村など…尾張領キリシタン検挙。」
○寛文五年(一六六五)中津川医師道白親子四人、キリシタン類族(改宗者)のため、犬山の親類へ送られたという往復書簡がある。
○同年 久々利衆宗門改めを、頭(かしら)分の山村甚兵衛、千村平右衛門に提出せず、尾州表寺社奉行に提出を主張する。これが九人衆名古屋転居のきっかけとなる。
○寛文七年(一六六七)尾張領は住所不定者の五人組編入などを指示した「未の二四ヶ条」を発令する。
○同年 尾張領内信者の大量処刑をする。
○同八年(一六六八)尾張領、キリシタン詮議の通牒「申の五ヶ条」を出す。
その後、尾張領では元禄一〇年や正徳元年にも、キリシタンの検挙があったが、キリシタン信者は、この寛文年中で、大きく一掃されたといわれる。