キリシタン高札

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キリシタン厳禁の徹底をはかるために、褒賞金をかけて、信者を探すことを奨励した制札である。幕府は、この制度を島原の乱後の寛永一五年(一六三八)に定めた。
 中津川では、この寛永一五年の高札は、はっきりしないが、これより一六年後、四代将軍家綱の時代に入って、承応三年(一六五四)のものがある。本陣留帳(市史中巻別編)によると、
 (1) 承応三年のキリシタン高札
 
             定
  一 切支丹宗門の事 累年雖為 御制禁 御代替に付て 弥無断絶 急度可相改之旨被仰出候条 不審成もの有之ハ 申出へし 此以前之通ハ 伴天連の訴人に銀弐百枚 いるまんの訴人に同百枚雖被下之自今以後ハ
    一 伴天連の訴人ニ 銀三百枚
    一 いるまんの訴人ニ 銀二百枚
    一 同宿並宗門の族 訴人ニ 銀五拾枚又ハ三拾枚 品によるべし
    右の通り為御褒美可被下之 若隠置他所よりあらわるゝにおいてハ 其五人組迄可被行曲事之旨 依仰下知如件
     承応三年二月九日   奉行
 
 家光より家綱に代替りになって、伴天連(ばてれん)(宣教師のうち司祭にある者)の密告者に対して、銀二〇〇枚だったのを、銀三〇〇枚、いるまん(司祭者以外の宣教師)の密告者に銀一〇〇枚としたものを、銀二〇〇枚、信者の密告者には、銀五〇枚または銀三〇枚を与えることとした。
 ついで、寛文元年(一六六一)に高札が建てかえられた(市史中巻別編)。
 (2) 寛文元年のキリシタン高札
 
            定
  一 幾里支丹宗門の事 累年御制禁たりといへ共 弥以無油断 可相改之 自然不審者有之ハ申出へし
     伴天連訴人   銀三百枚
     いるまんの訴人 銀弐百枚
     同宿並宗門訴人 銀五拾枚
     又は三拾枚 品により 急度御褒美可被下
     若隠置 他所よりあらわるるにおよひてハ
     其所の五人組迠
     可為曲事の旨 堅被仰出也
     仍下知如件
      寛文元年六月十三日  奉行
   右之通 従公儀 被仰出候間 可相守之者也
                 成瀬隼人正
                 竹腰山城守
 
 承応三年の高札と同じ内容であるが、その年、尾張領ではキリシタン奉行ともいうべき宗門改めの奉行を創設した。五代将軍は綱吉で、延宝八年(一六八〇)に就任したが、天和二年(一六八二)のキリシタン高札で褒賞の金額が多くなっている。
 「天和二年(一六八二)戌七月晦日 新高札五枚の写」「同八月一一日建申し候」と市岡本陣留帳(市史中巻別編)にあって、伝馬、親子兄弟、毒薬、にせ薬、キリシタン禁制など高札五枚を建てかえている。
(3) 天和二年のキリシタン高札
 
          定
  き里志たん宗門は 累年 御制禁たり 自
  然不審なるもの有之ハ 申出へし 御ほう
  ひとして
  はてれんの訴人 金五百枚
  いるまんの訴人 銀三百枚
  立帰り者訴人  同断
  同宿并宗門の訴人 銀百枚
  右の通可被下之 たとひ同宿宗門の内たり
  といふ共 訴人に出る品により 銀五拾枚
  可被下之 かくし置 他所より あらわる
  るにおいてハ 其所の名主并五人組迠一類
  共に 可被処厳科者也 仍下知如件
   天和二年五月 日     奉行
  右之通 従公儀 被仰出之畢 弥堅可相守
  之者也
             成瀬隼人正
 
とあって、ばてれん訴人は銀三〇〇枚より銀五〇〇枚、いるまんの訴人は銀二〇〇枚より銀三〇〇枚、宗門(信者)の訴人は銀五〇枚より銀一〇〇枚に増額となり、新しく立帰り人銀一〇〇枚をつけ加えている。