中津川宿の高札場は茶屋坂にあったが、その中で、このキリシタン御札(高札)の大きさは長さ三尺五寸、幅一尺二寸二分、高さ一尺三寸二分、厚さ一寸二分、これに長さ四尺一寸、幅三寸、厚さ一寸二分の覆いが、六寸の両軒つきでついていた(市史中巻別編)。
元禄一五年一一月には、この高札の建直しを願いでている。それは尾州表に対して木代、大工賃、釘代など合計七両三分と銭八九文の下付を願い出たものである。尾州表は先例によるとして、金三両三分と銭二七文を下付するとしている。この建直しは翌元禄一六年三月に完了するが、古材などを使い金四両と銭八四八文でつくりあげた。尾州表下付との差額金銭約一分は中津川宿の村入用より支出している(市史中巻別編)。
「正徳弐年辰七月 中津川御高札場建直諸事留書」(市史中巻別編一一-八二頁)によれば「江戸より御高札つかわされ候に付 尾州より 御触状参り候て 年寄与一右衛門参候 頂載つかまつり すなわち人足にて上海道(中山道)持ちまかり帰り尾州にて人足御証文もらい参り候」とあるように、正徳二年(一七一二)には、高札替があり、中津川宿では、年寄与一右衛門が尾州表からの触状によって、受取りにでかけている。このように高札の墨入は尾州より仰付けられた。このことは高札末記の「成瀬隼人正」(犬山城主、尾張領家老。竹腰山城守も尾張領家老)でも分かる。また同じ文書に「御高札残らず りゅうきゅう(包みこも)に包み 二鞘にいたし 宰領に喜助をつけ 尾州へ遣わし 則包候まま 御土蔵へ納……」とあるように、旧札は尾州へ返している。
(4) 正徳二年のキリシタン高札
この正徳の新札は次の通り
定
きり志たん宗門は累年 御制禁たり
自然不審なる者これあれば申出へし
はてれんの訴人 銀五百枚
いるまんの訴人 銀三百枚
立かへり者の訴人 同断
同宿并宗門訴人 銀百枚
右の通り下さるへし たとひ同宿宗門の内
たりといふとも 申出る品により銀五百枚
下さるへし かくし置 他所より あら
わるるに おいては 其所の名主幷五人組
迠一類ともに罪科におこなわるべき者也
正徳元年五月 日 奉行
右之通 従公儀 被仰出之訖 弥堅可相守
之者也
竹腰山城守
成瀬隼人正 (市史中巻別編本陣留帳)
キリシタン禁制について、この正徳の高札以後は、この文言のままで、草行かなまじり文の墨書として、生きつづけて明治までつづき、同三年(一八七〇)になって、こうした高札による禁制周知の方法は停止された。
(5) 各村のキリシタン高札 中津川宿の高札場には、このキリシタン高札を含めて、六枚の高札があったが、他の村について、どうであったか。落合宿村は、中津川同様キリシタン禁制を含んで六枚の高札があった。宿でない村むらについては、徇行記によれば、キリシタン禁制高札が千旦林村、茄子川村、駒場村にありと記されている。この三か村以外で高札場は、日比野村二か所、上地村一か所、瀬戸村一か所、阿木村二か所、青野村一か所、両伝寺村一か所、飯沼村一か所、大野村一か所などが明細帳から知ることができる。つまり村にはだいたい、一か所の高札場があったということであり、キリシタン高札がかかげられていたことであろう。この高札場のことを「札の辻(ふだのつじ)」と呼んでいたことが多いという。千旦林村では、八幡神社前の中山道付近で、今も名を残している。