(1) 中川旧記から
宗門改下改(したあらため)は毎年正月一五日、町方(上町(うわまち)、下町(したまち)、新町、淀川町など)正月十六日、在方(ざいかた)(中村、実戸、川上、上金、子野、北野など)で、戸主が銘々(めいめい)印形持参にて、組頭に差添へ出る。この下調べを以て、本帳美濃紙で壱、弐、参、四の合せて四冊に仕立てる。(検地帳も四冊になっている)御地頭役所(山村甚兵衛中津川役所)請合で、二月中に庄屋宅において、寺方からは、落合弐か寺(善昌寺、高福寺)、当所(中津川宿村内)の四か寺(宗泉寺、東円寺、大泉寺、西生寺)、駒場(福昌寺)、手金野(松源寺)、千旦林(大林寺)、茄子川(源長寺)迄の都合十か寺があつまって、それぞれ印形済(す)み、読渡済みを行った。
昼食は在方の組頭(小庄屋のことであろう)に対しては庄屋より、寺方(一〇か寺)は代官と同席酒飯となる。村役人衆は終了後酒飯となった。この費用は、それぞれ取集められた。
川上村は下調、同村限りで帳面にして出すことになっている。この宗門改帳の表書は「濃州恵那郡中津川村宗門 御改帳」となっている。
以上が同日記にでている宗門改めの大略である。これらから、中津川では、
○毎年正月一五、一六日に下改めをした。
○毎年二月中に寺請印形をして提出していた。
などがわかる。
(2) 宮地日記から
飯沼村の村役人藤四郎(宮地家)の天明四年(一七八四)分から 宗門改めに関係あるものを抜粋し、その大要を次に記す。
○天明四年正月八日 雪降り 宗門下改仕候 宗門帳は弥兵衛殿をたのんで遣す。
○同年正月十四日 廻状(触)がとどく。その中に宗門改め及び改帳記載の注意事項があり。次の通り
正月一一日付岩村表郡奉行からの触で「急度申し触れ候」として、五か条をあげている。
第一項~大小の百姓、寺社、山伏まで一人も残さず、吟味して、去年の通りに帳面をつくって、今月中に竹内要蔵(宗門奉行)へ差出すこと。
第二項~奉公人、抱人は、その村のうちの者でも、百姓並にせず、下(げ)人とはっきりかくこと。
第三項~文のまちがい、字のちがい、落字、欠字などしないようにすること。
第四項~二月に入って差出す村もあるが、一月中に持参すること。
第五項~(略)
○正月二八日 宗門帳上る。
○二月一五日 岩村表宗門奉行竹内要蔵が宗旨(門)改めのため来村の予定(二月二二日)であること。銘々が印形を持参することの触とどく。
○二月二一日 竹内要蔵(宗門奉行)のご機嫌伺いに与吉を東野村(当日は同村が改めの日)へつかわす。
○二月二二日 宗門 五つ時(八時)に相すみ申候。(竹内要蔵は阿木村へ向い、同村にて一泊し、翌日阿木村の宗旨改めとなっている。)
以上から
○下改めを正月中に行い、提出する。
○二月に宗旨改めのため宗門奉行が廻村している。
したがって宗門改めの本帳仕上げはそれ以後である。この下改めについては、青野村分が現存する(青野・鷹見家文書)。青野村の表書は次のようになっている。
享保十乙巳年 巳春宗旨御改下書記 正月十七日青野村 |
正月一七日であり、正月中に提出したものであろう。こうして宗旨改帳によれば、その提出日は、三月中旬の日付が多い。
例 正徳二年=三月十三日提出、享保三年=三月十四日提出、享保五年=三月十五日提出(小田原市可知家文書)
(3) 藤井日記から 茄子川村千村方(久々利方)庄屋である久左衛門(藤井家)の日記(慶応元年六月~同二年)に記載されている宗門改め関係をとり出してみると
○慶応元年一一月晦日~御宗門読合に駒場村へ行く。
○同二年正月一三日~山口村(信州)の曽我氏より、お多め(嫁入りした娘の名)宗門申受にくる。源長寺へすぐさま行き、宗門証明のことをたのみ帰る。(他村へ嫁入りの場合の寺請証文)
○同二年正月一四日~お多めの宗門地請状(キリシタンでないことを村役人が証するもの、地請証文)を認め山口村へ使いの者に もたせつかわす。
○同年正月一九日~去年(丑年)御宗門漸く今日判形する。
○同年三月二五日~組中、御宗門印形を取る。
(4) 奉行人の宗門改め 奉公人の宗門改めは、出入りのある三月、九月の年二回に行うことを寛文五年(一六六五)に定めたという。茄子川の源長寺が釜戸方(馬場氏、旗本)に出した「請負申宗門手形之事」の中に、延宝九年九月一一日付のものがあって、これを物語っている。それより約二〇年後には二月であるが、次のような宗門手形がある。
[傍点筆者]
請合申宗門手形之事
一 其御地ニ御奉公罷出候伝八宗旨代々禅宗ニ而
當寺旦那ニ紛無御座候若きりしたん宗門ト
申者御座候ハバ拙僧何方迄も罷出急度申分
ケ可仕候為後日仍而手形如件
宝永三年 濃州恵那郡茄子川
戌ノ二月十二日 源長寺 印
馬場藤十郎様
御内ハ
加藤六郎兵衛殿 (釜戸天猷寺文書)
今一つ、天和三年(一六八三)に同じく源長寺が出した「請負申宗門手形の事」として、茄子川村六左衛門、女子志よう、男子久松、一家三人を証明した手形があって、「天和三年亥の八月廿二日」となっている。八月というのは、奉公人手形なのか、年二回宗門改めを実施したのか、よくわからない。
これらのことから、
○千村方(久々利方)六か村(正家、茄子川、千旦林、中新井、駒場、落合)が宗門読合せを駒場村で行っていたこと。
○慶応元年は宗門改めがおくれたこと。
○だいたい三月に宗門改め印形取りがおこなわれていたこと。
などがわかる。