(1) 宗門改帳の表書
中巻別編の資料を中心にして、宗門改帳の表書をあげてみた。これらの資料は正文でなく、控または写しの場合であるから、正文は必ず、この通りであったとはいえないことを考えに入れながらみる。
1
飯妻村 宗旨改帳 墨付紙拾七枚 |
飯沼村(岩村領) (市史中巻別編) |
2
宝永六年 恵那郡栴檀林村之内辻原宗門御改帳 丑之二月 日 長八郎 |
千旦林村枝郷辻原・中新井分(山村・千村入相知行地) (市史中巻別編) |
3
年号 濃州恵那郡中津川村宗門御改帳[壱弐参四] 支月 日 |
中津川宿村例(山村領) (市史中巻別編) |
4
享保弐丁酉歳 岩村領飯沼村宗門御改帳 四月廿五日 |
飯沼村(岩村領) (可知家文書(市史中巻別編)) |
5
享保二年 木曽湯船沢村宗門御改帳 酉ノ二月 跡書 |
湯船沢村(尾張領) (島田家文書) (29×21.5) |
6
嘉永三年 濃州恵那郡正家村宗門扣帳 戌三月 |
正村家(尾張・山村・千村三尾入相知行) (加藤正和家文書) |
7
元録(禄)十一年 濃州恵那郡茄子川村宗門御改帳 寅ノ二月 |
茄子川村馬場領(旗本) (小川家文書・釜戸) (29×21.5) |
① 「御改」が共通していることは、この重要性について、改めとは何かと考えさせられること。つまりキリシタンでないことを本人、戸主、五人組、村役人、旦那寺がそれぞれ、厳重に立合ってあらためた証明の書類であること。従ってこの書類はこうした視点からみなければならないこと。尾張領内で弘化以後にみられる「人別帳」とは違う。
② 年号を右側、月日を左側、中央表記となっていること。制度として確立していない時期である1番は、そうなっていない。苗木領峯村分の万延二年では「宗門人数御改帳」となっている。
③ 岩村領の場合は、岩村領と書きだしている。
④ 大きさについては、これでは判明しないが26cm×18cmの更紙半分大のものと、それより大きい判29cm×21.5cmのものがある。
(2) 宗門改帳の内容
宗門改帳の内容は、前記した「改め」の意味からして、次のような事項が入っている。
① 戸主が妻子はもちろん親、兄弟、下人、奉公人、抱人男女までいれて、不審の者、別儀ある者がいないことを証明する部分。
② 五人組ごと(八人組から三人組まで、市内各村にはある)にまとめて百姓男女人数をあげ、相互に調べたが、不審の者はいない。若し他から不審の者がいるという訴人がいたら、急度(きつと)申し開きをすること、怪しい者は置かないことなどを村役人立合連判で証明する部分。
③ 寺院が「当村中旦那分は、紛れもなく、代々当寺の旦那にまちがいない」と証明した寺請文(寺手形)の部分。
④ 前年の宗門改以後、その村において、結婚、出生、死亡、奉公人出入などで変更のあった者を戸主との関係を入れて、どれだけ増えたか(増人)、どれだけ減ったか(減人)をまとめて、庄屋、組頭などが証明する部分。
⑤ 村役人の本手形(本証明)というべき部分で「油断なく詮議し、キリシタン宗門の者は勿論、あやしい者はおりません。若しおれば早速に、ご注進します。あやしい者が村内にいると訴人があれば、村役人まで、いかようの曲事を仰付られてもかまいません。」などと、庄屋、組頭、百姓代連署で差し出す証文の部分。
などであろう。次にあげるのは享保二年(一七一七)の湯舟沢村宗門改帳の最初にでてくる与八郎家(庄屋)のもので、本人、妻をはじめ、下人にいたるまで、全部をあげ、旦那寺は当村天徳寺として、戸主及び一家の宗門をあきらかにしている。
湯舟沢村宗門改帳
切支丹宗門 御制禁ニ付 従 公儀 度々被仰出候ハバ 御書付一々写置 常々堅相守申候 此度 毎年通 宗門御改被仰付候ニ付 村中 寄合致詮義 老人モ不残 宗門相改 寺請判指上申候
木曽 湯舟沢村
一与八郎 六拾弐歳
女房 四拾五歳 付知村助右衛門 妹
女子 たつ 弐拾九歳
同 くま 拾八歳 当村清吉所より離別仕候
養子 伝右衛門 弐拾七歳 当村権平 悴(せがれ)
女子 きよ 弐拾四歳 与八郎 娘
同人女子 たけ 五歳
伯父 作兵衛 八拾四歳
与八郎夫婦 子伝右衛門夫婦子 伯父共ニ 〆八人
宗旨 代々禅旦那寺 当村 天徳寺
譜代 下男 孫太郎 五拾弐歳 家内生
〃 同人男子九郎三郎 拾八歳
〃 同 已ノ太郎 拾六歳
同 下男 仁三郎 六拾八歳 当村仁右衛門
譜代 下女 はる 四拾八歳 家内生
〃 同人男子太郎 二拾歳 家内生
〃 下男 孫六 弐拾弐歳 つた子家内生
〃 同 二郎 拾七歳 同断
〃 仁三郎女房 七拾四歳 当村二郎八 娘
同人 養男子太郎助 四拾五歳 当村惣右衛門 悴
同人 女房 弐拾八歳 生所 木曽之内須原村定勝寺門前孫介娘宗旨代々禅旦那は此定勝寺ニ紛無御座候則右旦那寺より寺請判取天徳寺へ入置 天徳寺ニ罷頼申候 則天徳寺より宗門請手形指上申候
下男 助十郎 五拾歳 先年召抱申候
譜代下男下女孫太郎子仁三郎夫婦 養男子太郎夫婦年季共ニ 〆拾弐人
宗旨 代々禅旦那寺 当村 天徳寺
家内〆弐拾人 内男 拾弐人
女 八人 与八郎
この享保二年湯舟沢村の宗門帳では、与八郎家で生まれた以外、つまりその家へ外から入った者、嫁入り、養子、奉公人などは すべて その生所と生所の戸主との続柄が記入されている。またこの年に他村より入った者(譜代下男太郎助の女房)については 生所の旦那寺、そこより寺請判取をして、与八郎家の旦那寺天徳寺へ入れ、天徳寺より手形(証明書)がさしだされている。
与八郎は いわゆる家族と下男下女などあわせて二十人と多いこともあって、家族と下男下女にわけて 人数計と寺証明(旦那寺=天徳寺)をし、その上に総計をしている。これは尾張領では蔵入地、給人地の別なく、だいたい同じようである。寺証明のことを茄子川村釜戸方(馬場領)では「請負申宗門手形之事」として、別に一戸ごとにまとめている。
請負申宗門手形之事
一 恵那郡茄子川村善兵衛 女房 男子長吉 女子はつ 一家人数〆四人
禅宗にて代々当寺旦那にて御座候 若切死丹宗門と申者御座候ハバ何
時成共 拙僧罷出 急度申分可仕候 為後日手形 乃而如件
元禄十一歳
寅之二月 源長寺 印
馬場藤十郎様 春涯
御内加藤六郎兵衛殿