③と⑤について

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 次に証明の主要部分である寺証文(寺手形)と村方証明(本手形)について、ふれてみよう。岩村領(後の松平氏)の場合では、人数をまとめて五人組切で記入していき、さいごに村内の寺について住職、弟子を記入し、惣人数をあげ、次いで旦那寺一か寺ならその人数を、二か寺以上なら、それを旦郡寺ごとに分類して人数を書き出した後、差出申寺証文と寺手形を差し出している。その文面の要点は「村中で当寺旦那の分は代々拙僧などの旦那にまぎれございません。御公儀禁制の宗門きりしたんと訴人があれば、きっと申訳をいたします。」である。
 その次に「指上申証文之事」として、庄屋、組頭、百姓代連署の証文(本手形)となっている。その文面の大要はa一人残らずよく吟味したが不審なる者はいないこと。b公儀よりの法度は畏って急度(きつと)守ること。cあやしい者は村におかないこと。d親類といえど、他所の者は無断でおかないこと。e他所より村へ入った者については宗門をよく吟味すること。出入人とも報告すること。f帳面以外の者は村に一人もいないこと。などで、これをかたく守ること。若し違背の者があったら、村役人まで罪科にして下さってもかまいません。となっている。
 この寺証文→本手形(村証文)の順に記載して証明するのは中津川宿村、湯舟沢村とも同様であるが更にくわしいものとなっている。つぎに寺手形の前文をあげる。(村証文=本手形は中川旧記に例文として記されている)(中巻別編九九〇頁)。
 
  右の通木曽湯舟沢村当寺旦那之分男女共ニ一人も不残宗門改吟味
  怪敷事無御座候ニ付 請判仕候 右之者共之内若切支丹宗門有之
  由訴人有之ニおいてハ当寺住僧 越度ニ可被仰付候 以前 他宗
  之者宗旨替へ当寺旦那ニ罷成候者ハ已前之旦那寺より宗門朔乱之
  義無之旨手形取旦那ニ仕候 本より当寺之宗門之者も他村より参
  り当寺旦那ニ成候者ハ是又 已前之旦那寺より請状取 其上ニ而
  請判仕候 向後も先祖之宗門不致者を不詮義いたし已前之旦那寺
  より請手形も無之者を 旦那ニ仕間敷候 新ニ当寺旦那ニ成候者
  ハ已前之旦那寺より請手形取宗門うたがわしき義無之様ニ遂詮義
  可申候 惣而公儀より度々被仰出候 御法度之品々一々写置 急
  度相守申候 旦那之内怪敷者御座候ハバ 早速御注進可申上候
  宗門之吟味疎ニ仕候由 御聞及被成候ハバ何様ニも可被仰仕候
  為其仍而如件
          湯舟沢村
               天徳寺 琴蔵 印
   享保二年
     酉之二月
 
  福嶋寺社
   御奉行所
     寺内
 
 なお「請負申宗門手形之事」として一家ごとに出している茄子川釜戸方の例は、前記した通りである。村証文(本手形)は「差上申一札之事」として、九か条程からなっているが、終わりの一条に
 
  一 廿四ヶ条 五ヶ条 七ヶ条其外度々従公義被仰付御法度之品々一々何連(いずれ)も写シ置急度相守可申事
 
としている。この廿四か条は「未の廿四か条」とよばれているもので、寛文七年(一六六七)に尾州表が居所不定のものについて五人組編入及び宗旨吟味を命じたものである。それによると
 
  道心者、諸医師、商をやめ候聖、念仏唱(ねんぶつとなえ)、行人、陰陽師(おんようし)、ゐんない、神子(みこ)、堂守、猿引、事触(ことぶれ)、こもぞう(こむそう)、諸商人、諸職人、謡舞教候者、手習物よみ教候者、日用取 比丘尼、ごぜ、座頭、ささらすり、ちゃせん作り、鉢ひらき など
 
 これら住所不定のものについて、五人組編入させること、ことわるものは村預けにせよ、よく詮さくして、あやしき者は届けでることなどを あげたもので、百姓以外の者について宗旨改めの徹底をめざしたものである。
 また「五ヶ条」は「申の五か条」と呼ばれて、同八年(一六六八)に出されたもので五人組で相互監視の視点をあげたもので、大要は次のようである。
 一 村中が互に僉議し、キリシタンと存じ候者は早速申出すべし。常に何事においても宗旨躰あぶなかしき存寄りの者これあり候はば、見聞及び候共 その村の義は申すに及ばず、他村の者の義にても、早々申し出べく候。その品によって、ごほうびくださるべく事。
 一 宗旨うたがわしきもの、たとえ親類縁者何者にても依怙ひいきなく早速申出候。あぶなしき躰、見出しきき出し心がけ油断仕まじく候事。
 一 五人組の内キリシタンこれありと 脇よりあらわれ候はば、僉議の上 組合の者曲事なさるべきこと。
 一 キリシタン宗門の者を訴人仕候はば、先年より公儀定の通りほうびくださるべく候事。
 一 領国内に 生所のわからないもの、他国より不図(ふと)参り候者には一夜の宿もしてはならない。
 このように、さまざまの角度から 発令済の諸触の遵守も入れて、キリシタン厳禁を誓わせている。次に旗本である茄子川村釜戸方の村請手形「指上ケ申一札之事」は次のようである。
 
     指上ケ申一札之事
  一 今度村中宗門御改被 仰付候依之跡々(あとあと)
    も被仰付候通村中人別ニ改申所ニ御
    法度之吉利支丹宗門者壱人も無御座候
    就夫村中男女寺請状取之指上申候自今
    以後弥相改若不審成者御座候は早々可
    申上ケ候尤前々ゟ(より)被仰付候通御公儀様御法度
    之儀は不及申上諸事被仰付□□□之儀共為相
    背申間敷候付而は村中ニ他所ゟ参候牢(ろう)人
    指置申間敷候惣而不審成者一夜之
    宿も借シ申間敷候為後日手形仍而如件
     宝永三年   濃州恵那郡茄子川村庄屋
      戌之二月十二日       久右衛門 印
                    組頭
                    長左衛門 印
                    組頭
                    七左衛門 印
                    同断
                    市郎左衛門 印
      馬場藤十郎御内
         加藤六郎兵衛様               (釜戸天猷寺文書)