[湯舟沢の人口変化]

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延宝四年(一六七六)から、寛延四年(一七五一)の七五年間のうち、宗門帳より分かる戸数、人口(男女)、などは前記のとおりである。
 この人口変化は、宗門帳の性質上、その年の出生数は含まれていないから、現在の人口調査ほどの正確さはないが、その傾向は十分に把握できる。
 延宝四年(一六七六)、戸数四一、人口三五八、それが七五年後の寛延四年(一七五一)では戸数六三、人口五二六となっており、延宝四年の人口を一〇〇とすれば、寛延四年は一四七となり、七五年間にわたって漸増している。
 この期間の人口を他地域と比べてみると、岐阜県史(史料編近世五)によれば、享保~寛延の三〇年間は、美濃国の平野部では、相つぐ水害による凶作で、人口が減少しているというし、飛驒では、全人口が享保六年(一七二一)六万七〇三二人、寛延三年(一七五〇)七万二三二三人となっており、寛延三年は一〇八となっている。この限りでは湯舟沢村の人口変化は飛驒と同じ傾向である。
 また同じ木曽谷内で、福島宿の人口や岩郷村の人口と比べてみると次のようである。
○湯舟沢村と福島宿の人口変化の比較
      延宝四年(一六七六)  元文五年(一七四〇)
  湯舟沢 三五八(一〇〇)    四五一(一二六)
  福島  九三二(一〇〇)    九六二(一〇三) (木曽福島町史)
○湯舟沢村と岩郷村の人口変化の比較
  延宝四年(一六七六)  享保一五年(一七三〇)
  湯舟沢 三五八(一〇〇)    四六八(一三一)
  岩郷  八六四(一〇〇)=[延宝二年分] 九五二(一一〇)(木曽福島町史)
 この二つからは、湯舟沢村の人口増加率は木曽谷としては高いといえる。また年毎の特色としては、元禄一二年(一六九九)、元禄一四年(一七〇一)、正徳二年(一七一二)、正徳六年(一七一六)、享保七年(一七二二)、享保一七年(一七三二)などは資料では人口が減少しており、飢饉(ききん)か疫病の流行が考えられる。後述する飯沼村もほゞ同じ傾向である。
 次に人口の男女差については、湯舟沢村は常に男子が多かった。これは山伏、僧などが含まれるから、ある程度はわかるが、それにしても男女差の大きい村であった。