①の次・三男の別家だてについて調べたのがⅢ-1表である。
Ⅲ-1 湯舟沢村の戸数の増加 (享保二~二一年分)
表からも分かるように、独立の場合は五〇代、四〇代が大部分である。しかし逆の場合、つまり一家消滅の場合もあった。同じように享保二年~二一年について調べたのがⅢ-2表である。理由は親死亡、倅死亡などであることは今も変わりない。
Ⅲ-2 湯舟沢村の一家潰れ
③にあげた新田開発による増戸については寛延三年~四年の宗門帳にみられる。それをあげると、
○作兵衛三七歳、親子五名は落合村より、新田百姓にて入植(霧ヶ原)。
○久兵衛五五歳 王滝村勘太郎組より、新田百姓にて入植(霧ヶ原)。
これらと全く逆で他村へ出るのもあった。延享四年(一七四七)の例でいうと、
○彦作弟谷作三一歳 同女房二二 山口村の田地買引越す。
というものである。