千旦林村本郷

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千旦林村本郷の久々利方分の田畑は与ヶ根の代官屋敷跡が示すように、その付近に多かったと考えられる。久々利方分の宗門帳として文化二年(一八〇五)から文政一三年=天保元年(一八三〇)の二六年間のうち、二四年分の宗門帳が残っている。(残存率九二・三%)宗門帳にあげられている人数の年別計の変化はⅢ-19表が示している。

Ⅲ-19 千旦林村本郷久々利方宗門帳の人数まとめ

 文政二~九年が六四人~六一人で減少しているが、平均は七〇・五人となっている。戸数については、文化二年で二三戸、二六年後の文政一三年で一八戸となって減少している。この戸数の変化の内容をあげると、次のようである。
 (1) 絶家(潰れ百姓)
  ・文化四年、嘉右衛門家~嘉右衛門は文化二年、五十歳死亡、孤児となった悴益吉は文化四年、親類である岩村領富田村武七に引きとられ絶家となった。
  ・文政九年、惣十家~惣十は文化一四年、母ともは文政九年死去し、一家死亡して絶家となる。
 (2) 行方不明で宗門はずしの百姓
  ・文化一四年、源兵衛家~文化一三年春寒く、長雨の年であった。母くの六五歳、娘つぎ一四歳が六月に、はやり病であろうか一緒に病死している。文化一四年八月源兵衛四五歳、女房四〇歳、悴安蔵六歳は、西国廻国に旅立ったが帰村せず、宗門帳から除かれた。
  ・文政四年、兼之助家~兼之助は母しの五四歳、妹との一四歳を残して、この年春家出してしまい、一年たっても帰らず宗門帳よりはずされた。
 (3) 同村内でも耕作者がかわる場合=知行主(領主)は幕府から土地をあてがわれたものであるから、その土地につく百姓がかわれば、宗門帳においても、当然消去されたり、新たに書き加えられたりしている。この時「引越」といっているが、これは宗門帳の上でのことであって実際の引越ではない。
  ・文化五年、無高百姓彌吉は三百石方の小作人になり、家内三人引越す。
  ・同年、高持百姓源六、三七歳一家四人木曽方へ引越し、入れかわりに高持百姓武助一家三人、木曽方より引越す。
  ・文化一〇年、高持百姓又蔵は倅又四郎が木曽方百姓で、そちらに移る。これについて「山村様知行所悴又四郎方へ 宗帳面のうち参候」と記載されている。
  ・文化一三年、高持百姓藤助家(四人家族)が三百石方百姓に引越し、かわって高持百姓伝蔵家(八人家族)が、藤助の名跡を継いで三百石方より入ってきた。この変更の理由はわからない。
  ・文化一五年、高持百姓善七(七二歳、女房六二歳、男子一七歳)三百石方へ引越す。
  ・文政七年、高持百姓勝之助(改名曽市)一家三人、辻原久々利方より引越す。(同じ久々利方でも本郷と枝村では宗門帳は別冊である。)
  ・文政九年、高持百姓半兵衛一家三人、三百石方より引越す。
  ・同年、助十郎家、長男の死去で文政三年に無高になった助十郎家は、彼が七一歳の十二月に女房いち六七歳、妹いね六五歳が死亡する。三百石方百姓徳次郎よりもらった養子第治郎は、その年七歳であった。そこで文政九年助十郎七三歳の年に、三百石方百姓庄右衛門の倅竜吉、その女房かな、男子の親子三人を改めて養子として迎え入れる。これによって竜吉一家三人が三百石方より引越しとなった。
 (4) 高持百姓から無高百姓へ
   年貢未納で土地を質入れしたが、とりもどすことができなかったとか、家内に病人などの理由であろう。本百姓から小作人になった百姓である。
  ・文化六年、孫左衛門家(本人八二歳女房なつ七三歳、養女なべ一九歳)無高百姓となる。
  ・文政三年、惣十郎~(1)と同様
  ・同年、助十郎家~(3)と同様
  ・同年、善十家~本人五八歳、女房かの五〇歳、娘かも一一歳の年、無高百姓となる。
 (5) 無高百姓から高持百姓へ
   (4)の場合の逆例である。
  ・文化六年、金蔵~本人三八歳、女房きく二四歳、父治右衛門七四歳、女子せん五つの年である。孫左衛門と入れかわって高持百姓となる。
以上、百姓一家(戸数)の変化の様子を述べてきた。この久々利方の百姓の中にあって、庄屋家を勤めるなどした高持百姓は、清兵衛家である。清兵衛は襲名である。(隠居名はこれも襲名で久兵衛を名のった)。なお清兵衛家は久々利方にあって「宗門一本」の家柄であった。Ⅲ-20表の示すのが、文化二年~天保一一年の三五年間にわたる清兵衛家の家族構成である。①結婚して清兵衛襲名のこと、②先代隠居して久兵衛となり、清兵衛が庄屋となること。③清兵衛二三歳結婚、弟清助三四歳結婚のように、二男以下の結婚のおそいこと、⑥天保六年には、清兵衛夫婦、弟夫婦の三夫婦であることがわかる。

Ⅲ-20 庄屋清兵衛家の家族