久々利方辻原分として、高持百姓一一軒人数七六人(男三八、女三八、宝永八年分)で宗門帳の提出先は久々利方代官の越石八十左衛門となっている。この辻原久々利方分高持百姓一一軒を表にしたのがⅢ-21表である。
Ⅲ-21 宝永六、七、八年 千旦林枝村辻原久々利方宗門帳のまとめ
Ⅲ-21表から推察されるように、享保年中の湯舟沢村と比べると、夫婦と子どもという単純形態の家族が多いことが目につく。この中で借家二軒と下人をもつ三右衛門家の家族構成を表にしたのがⅢ-22表である。
Ⅲ-22 高持三右衛門家の宗門帳のまとめ
三右衛門家は、本人、女房、子どもで七人家族、それに「下女とら」と「その子とめ」も下女となっている。このように下女を雇いながら、長男八右衛門、三男伊三郎などが季節奉公に出ている。なお三右衛門の屋敷内には、彦八郎一家(女房、女子一)が住んでいる。前述のように借家もあり、宗門帳では三右衛門分として合計されている。これは湯舟沢村庄屋家と同じである。
血縁分 7人
下女 2人
三右衛門支配下
地内に罷有候分 2人
-借家に罷有候(二家族分)5人 計16人 宝永8(正徳元)年分から
下人をもつ家は、三右衛門家を含めて三軒で、一~二人の雇用で、それ以上の家はない。源七家でみてみると、
宝永六年 下人 長九郎
下女 しも
宝永七年 下人 金八郎(下人 長九郎 去冬追出申候 下人金八郎儀去冬召抱申候)
下女 しも
宝永八年 六助 (下人 金八郎 去冬出申候、下人六助去冬召抱候)
下女 しも
となっていて、冬(農閑期)から奉公に出て、一年毎にかわっている。Ⅲ-21表にある組頭庄三郎の妹に「くり」(宝永六年 一九歳)がいたが、
宝永六年-妹くり儀 駒場村太郎衛門方に居申候処 去冬より此方に居申候 宗旨代々禅宗駒場村福昌寺(旦那寺)
宝永七年-妹くり儀 去冬茄子川村紋四郎方へ縁付申候 宗旨代々禅宗大林寺(旦那寺)
とあって、妹くりは駒場村へ(奉公か)出て、福昌寺の旦那であって、辻原へ帰って大林寺の旦那になり、翌年茄子川村に縁付いて、大林寺から宗門送りがいっている。これらのことは、宗門送り=送籍のことを表わしている。