寛政以後の中新井村・辻原分

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寛政七年(一七九五)から嘉永四年(一八五一)の五七年間に二五年分の宗門帳が残されている。(残存率四三・八%)
 これを宝永の三年分、享保の一〇年間も含めて、人数とその増減を中心に表にしたのがⅢ-23表である。
 久々利方辻原・中新井村(同村の半分の田畑知行だから、人数もほぼ半分と推定しても、大きな違いはあるまい)の人数は、寛政年代が四七~四八人、文政以後、嘉永まで五〇人代を上下していて、大きな変化はない。江戸時代前半の宝永年中と比べると、人数はかなり減少している。
 家族数については寛政七年から弘化二年(一八四五)間つづいている家一〇軒についてみると、庄屋儀兵衛家(宝永年間、長八郎家)組頭庄六家(同、庄三郎家)の二軒が二夫婦の家族である以外は、夫婦と子どもの二人~六人家族の家が多い。
 高持百姓〓無高百姓の例は、ここでも四例あるが組頭庄六家の別家については次のようである。
 組頭家庄六長男伊助は庄六を襲名後、結婚、組頭家を相続し、二男徳助は三五歳の文政八年(一八二五)に苗木家中、塚本文平宗門帳内より「ふじ」という娘を女房にもらい、別家をたてた。別家をたてたといっても本家の小作人として、耕作し生活をたてるわけで、文政九年から、宗門帳には「無高百姓徳助」と記載されている。別家の普通の型であろう。

Ⅲ-23 千旦林村枝村辻原・中新井村久々利方宗門帳のまとめ