一戸の規模と構成

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正徳二年(一七一二)で「一 禅宗当村禅林寺旦那 誰 何歳」と書き、以下は「同宗同寺、誰」と記されて、「一」がなくなる。このまとまりを、「一」のつく筆頭者が支配する一戸の百姓家と考えて、(湯舟沢村千旦林村でも同じ)宗門帳をまとめたのがⅢ-26表である。

Ⅲ-26 正徳二年 家族構成


 

Ⅲ-26表によると
(1) 単純家族(親子など二親等のみの場合)が三二戸(五七%)……ア、その他の血縁家族を含むのが九戸……イ、血縁以外に下人、抱と記載されている構成員を含むのが一五戸……ウ、となり単純家族が過半数を占めている。
(2) アの百姓家、イの百姓家の人数計は二七〇人で、宗門帳による飯沼村人口三三八人にしめる割合は七九・八%、約八割であり、下人、抱などの人数計は六八人で約二割、そのうち抱の人数が五五人、一八世帯となっている。つまり宗門帳の上で独立の戸数は、五六戸であるが、そのどれかに隷属している抱と呼ばれる世帯が一八家族あることになる。
(3) 抱、下人を除いた一戸の百姓家について、正徳二年のみでなく、明和五年、文久四年(元治元年)分の一戸の人数別の戸数をまとめたのが、Ⅲ-27表である。この表と比較してみると、抱、下人を除いた一戸の世帯構成には、幕末まで大きな変りはない。

Ⅲ-27 飯沼村宗門帳より抱、下人を除いた世帯別人数