湯舟沢村には、享保年中「譜代下男、下女」と呼ばれた隷属関係者が、同村庄屋他一軒にあった。千旦林村枝村辻原の宝永の宗門帳には「借家に住み申候」とか「誰々地内に住み申候」という無高百姓があった。飯沼村の抱百姓というのは、湯舟沢村、千旦林村の隷属百姓と同じような面ももつが、異なる面をもっている。この「抱」については、可知尚子氏の研究論文がある。以下はこの研究によるものである。
Ⅲ-26表にあげたように正徳二年宗門帳第一書上者は 「庄屋伊右衛門」である。同人家の記載は次のようである。
一 禅宗当村禅林寺旦那 庄屋 伊右衛門 年四拾二
同宗同寺 女房 年三拾六
同宗同寺 男子 伊平 年拾八
同宗同寺 男子 太郎吉 年拾四
同宗同寺 男子 伊三郎 年七
同宗同寺 女子 とら 年三
同宗同寺 下男 万蔵 年拾七
同宗同寺 下男 三太郎 年弐拾二
同宗同寺 下女 さく 年五拾
同宗同寺 抱男 善右衛門 年三拾
同宗同寺 善右衛門女房 年弐拾六
同宗同寺 同人父 喜左衛門 年六拾五
同宗同寺 同人娘 いそ 年三
同宗同寺 抱男 喜助 年四拾三
同宗同寺 喜助女房 年三拾四
同宗同寺 同人悴 長五郎 年七
庄屋伊右衛門家には、血縁家族以外に抱男、善右衛門一家(女房、同人父、同人娘)と抱男喜助一家(女房、倅)の二世帯の抱と、下男二人 下女一人がいた。
「抱」「下男・下女」とも何らかの隷属的関係であったと思われるが、下男、下女は飯沼村の場合は、年齢にかかわらず「下男万蔵年拾七」「下女さく年五拾」というように、その男、女自身として表現されているのに対して、「抱」は世帯持ちである。だから下男、下女は筆頭者である伊右衛門の家、屋敷に同居していたと考えられるが、「抱」を二世帯も抱えていては、同居は考えられない。なお「抱」という呼び方については、若干の違いはあるが岩村領内の各村に見られるし、信州佐久郡や飛驒にもあるといわれているが、中津川市内関係、他の知行所分にはない。