Ⅲ-28表で示したように、正徳二年、飯沼村人口(宗門帳による人口)は三三五人、寛政四年では二九九人と減少し、後半再び増加に向うことは、すでにのべたが、この天明~寛政の人口減少期は、出生率より死亡率が上廻った時期であるし「抱」世帯の増加時期で、飯沼村をとりまく経済状況が悪化したためであろう。村を「出人」する者が多くなったことは、これをよく示している(Ⅲ-27表)。
死亡については、特定の年代に集中的にあらわれるという特色がある。正徳二年、享保七年、同一八年、宝暦六年、明和五年、天明三年、同四年、寛政一三年、安政二年が死亡が多い年である。中でも天明三年は、死亡二〇名で、その中には、忠兵衛家の母、抱新助の女房、娘(養子を迎えている)と、その子三歳の四名が死亡しているのもあるように、死亡の割合が高い。天明三年は浅間山噴火、霖雨、冷夏、早霜、その上八月から十一月疱瘡流行という年である(市史・中巻別編年表参照)。この天明三年の宗門帳の死亡年齢をみると合計二〇名の死亡のうち三歳、四歳の幼児二名の外は、大人で、中でも五〇~七〇歳台の死亡者が多いというように、幼児の死亡が比較的少ない。これとは逆に同じ死亡者の多い享保一八年宗門帳においては、死亡者合計二三名、うち五歳以下一〇名、六~一〇歳が二名、五〇歳以上が九名であって、一〇歳以下で全体の半ば以上をしめていて、しかも一〇歳以下の死亡月日が九名まで八月に集中している。これは「去秋の凶作により広岡に飢人でる。」(鷹見家記録)とあるように、享保一七年の凶作、それに関連して「はやり病」のためか、八月に集中して一〇歳以下の子どもが死亡している。
またこの年、抱女を四名もつ長八郎家でも、長八郎自身と次男(二歳)が死亡し、女房と長男は抱となって、土地を手離している大変な年であった。
このように飯沼村も湯舟沢村同様に、江戸時代前半は子どもの死亡の多いのが目につく。