河川灌漑

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中津川地域は扇状地形であるから、沢水利用より一歩前進した自然流にまかせるが、耕土の深い水田帯に向って流下させた井堰(法道寺川・小淀川)と、円礫で本流をとめて揚水ができる程度の川(黒沢川・米田川・後田川・杭瀬川など)を利用した井堰は、中世末までにはつくられていたと考えられる。それが戦乱期をへて、江戸時代初期頃になると、堰を丸太または手枠で組むこと、猿尾という川除工法、粗石をつめた蛇籠を用いること、松明を利用した測量、開削道具、運搬法など技術的な進歩と領内の生産の向上によって、年貢増加をはかりたい支配者側の積極性、農民の生活向上の願いなどが推進原動力となって、さらに大きい河川からの井堰が可能になり、新田畑の開発が進んだ。
 一般的に河川灌漑には
 ①大河川利用で数か村以上にまたがる大用水路。
 ②堰を丸太で組み、樋門もかんたんなものをつかっており、堰堤は毎年こわれるし、年二~三回は共同でつくりなおす規模の用水路であって、その取水口は本流が平坦部にうつる谷の出口にある。
 ③沢水利用で、堰も土俵をつんだ程度で、自然流入に近い形で、取水している用水路。
 の三つがあるが、中津川地域に関係あるものは②③の分類に入るものである。この②と③の場合において、豊かな水量の確保と洪水に対して強いこと、換言すると取水口の安定が大事である。中津川地域の川は、いわゆる荒れ川が多くこの点の苦労がつづいた。
 村明細帳によると、この取水口とその様子について、落合、駒場、千旦林村の三か村では、
 落合村 当村用水 但し用水井口深山より流込に付大雨満水の節関口大石又は砂等押込 或は井堰度々手当等大難澁仕候(市史中巻別編七〇三頁)
 駒場村 此村用水の儀は 恵那山の谷落に御座候て手金野より 奥歩行壱里程の処より井水引候に付 溝筋節々損し 且井口悪敷出水の節は損所出来難澁の村方に御座候
 千旦林村 用水井口より満水の節大石又は砂等流込 或は井堰たびたび手当大難澁仕り 尤も その年柄模様に御座候(井堰二〇か所)
 のように記載されており、取水口については大岩、かたいさば土、それに地形を考えて選んだであろうが、毎年苦労をつづけてきていることがわかる。