中津川の市街地をつくったのは四ツ目川・中津川である。これらの川より取水した用水が、中津川市街地の産業と生活を支え、発展させてきた。この中津川について若干考えてみたい。
元来、川の名は、その水源地の地名をつけるのが普通のようである。だから、これに従えば現在中津川と呼ぶことが定着しているので、それはそれとして本来の呼び方ですると、川上川と呼ぶべきであろう。
実際に、江戸時代の文書類には、ほとんどすべて川上川で登場していて、中津川とは呼んでいない。
同所川上川橋 但板 長拾八間
幅壱間五尺
但 中津川宿と駒場村との境 (中山道筋道之記・寛政元年)
のように道中関係はもちろん、中川旧記にも「駒場境川上川橋中央……略」といっている。しかし尾州の古義には「中津川縦橋 長十四間、幅九尺」となっている。また手金野の吉田家文書に「手金野往還境より中津川大橋迠駒場村之内道法十六町壱間」とあって、川上川の橋を「中津川橋」といっているが、これは、中津川宿にある橋という意味であろう。
この中津川(川上川)は何回か水害を発生させているが、現在は江戸時代より、川底がずいぶん上がっている。
現在、梶島橋下向の手賀野側は、大きな崖となっている。手金野村石高表(吉田家文書)によると、
外ニ高拾三石七斗六升六合 梶島分
内高拾石 除地
残高三石七斗六升六合 年貢地
都合四百拾四石六斗六升三合
米壱石八斗八升六合 山年貢
となっていて、梶島に一三石余の生産力をもつ耕地があったことがわかる。しかし、現在、それらしい土地はみられない。このことを記録している吉田家文書は、安永九年(一七八〇)頃で終っているから、すくなくとも、梶島の田畑はその頃まではあった。とするとそれ以後の大きな水害は、元治元年(一八六四)のものと、明治一五年(一八八二)のものである。前者では手金野本井水が破壊されてしまったし、後者では、明治四年にかけた川上川の橋がおち、家も流れている。
梶島の田畑は、おそらく前者の時に流失してしまったのであろう。このことは除地が松源寺分であって、流失した代りに松源寺が手当を受けていることからも分かる。
このように、江戸時代以来でも山が崩れ、水害のたびに川底は上がりつづけたであろう。享保元文年中(堀尾代官の頃)より実戸地内に除地を知行主山村氏が免許して、下町の水神神社が祭られるが、これもこうした事情をあらわしてるともいえる。(祭礼日毎年六月廿二日寛保元年の燈籠あり)
江戸時代前期の元亀~慶長(一五七〇~一六一四)は、全国の山が乱伐されて、山崩れを誘発し、大水害にたびたびおそわれた。中津川関係では、元亀元年(一五七〇)に大水害があった。この水害について広岡地人誌には「詳ナル事ハ判明セザルモ 往古ノ文書ノ端々ニ録サレタ事 又古老ヨリ聞出シタル説ニ依レバ 遠ク元亀元年夏一ヶ月余ニワタル降雨有リ 木戸ケ入リ及ビ馬籠(ばろう) 越沢 松沢等各洞コトゴトク崩壊シ 濁水汎濫シ 白河原トナレリ……」と記録されている。
中津川(川上川)も同様であったろう。この中津川より、取水の本格的の井堰(用水溝)が第一用水である。