しかし、井堰、水田開発に関して、これを跡づける文書、伝承は、近世以後でも、あまりないのが、普通の状況のようである。そうした中で、第一用水に関しては、伝承が「中川旧記」にまとめられていて、大略を推察することができる。中川旧記によれば、
右貞享以前 寛文二(一六六二)壬寅年大工古橋源治郎 駒場大平山ニテ水ヲ見積リ 新井筋水行成 右賞として 恵下並木曽川平大角豆畑ニテ地を給ふ 恵下ハ開拓源蔵分縄請之田地也
新井出来より廿三ヶ年之縄入也
これによって、第一用水の創設は、寛文二年(一六六二)であると推定される。
大坂夏の陣(元和元年)より、五〇年前後をへて、国内が安定してくると同時に、新田開発による内政の充実期に入った頃の大工事である。もう一つの大開発である阿木の広岡新田は、翌寛文三年より見取年貢を納めていることも、これを示している。また同年には同じく古橋源治郎が、中津川字大明神から北野を迂回して子野へ通じていた中山道を改修して茶屋坂道を開設した。その功により廃道敷を贈られたという(中川旧記・市史中巻別編九八六頁)。
この寛文頃の中津川宿村の動きとして
万治元年(一六五八)子野神明社建立、寛文四年(一六六四)茶屋坂、天満宮建立などがあるが、中川旧記には、村社八幡宮(中村の八幡神社)の記事の中に、
拝殿再建棟札[七間三間]
(第六代寛永六年-延宝八年) 信州ノ住人 木曽山村良豊公令建立 寛文二年壬寅十一月 大工藤原朝臣 古橋源治良(郎)義元 |
裏書 大工 中山治兵衛 山口九郎右衛門 古橋平十郎 |
として棟札の記事をあげた後で
新井御社内ヲ堀割水行ニ御礼ニ御建立ト聞伝
とあげている。この棟札と関連の記事によれば、知行主である山村甚兵衛良豊が、第一用水のコースが八幡神社境内を掘割って通るので、そのお礼の意味もこめて、大工古橋源治良(郎)に「令建立」させたものとわかる。
この立場を井堰つくりまで、広げて考えれば、知行主である山村氏の下命によって、土木技術と施工知識をもつ古橋源治郎が工事の主要部分を担当し、この中津川宿村はじまって以来の大工事をやりとげたもので、知行主山村氏から賞されたものと考えられる。
このことは、慶安元年(一六四八)当時の岩村領主の丹羽氏より、広岡新田開発の指揮を命ぜられた枝村青野村の鷹見弥平次の場合と同様であろう(五項広岡新田の開発参照)。